2013年01月17日

BT/美術手帖 2012_08号

BT 2012_08

bt_2012_08.jpg

【特集】写真2.0
ストリートビューや監視カメラが映し出す
世界の隅々までの画像を誰もが入手でき、
デジタル写真の解像度は人の視力を超えていく。
イメージが氾濫し変容するこの時代に、
作家たちは、写真の概念を鮮やかに更新する作品を生み始めた。
従来の枠組みにとらわれないことで現れた、
新たなプラットフォームのもと進化を遂げる、写真のこれからとは?


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画像とは、つきつめれば視覚的な刺激そのものではないか ―― トマス・ルフ 
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Thomas Ruff

Thomas Ruff

Thomas Ruff

Thomas Ruff

Thomas Ruff

Thomas Ruff


タイポロジー(類型学) 36
ガスタンク、給水塔、労働者用住宅、産業地帯など同種の建造物や景観などを、角度を変え、ある種のディスタンスをもって無数に撮影し、そこから被写体の実体を探り出そうとする学問。
ベッヒャー夫妻がオリジンとされる。




『デジタル写真、この未知の領域/清水穣』 50〜 
(ココに載せるのはまったくの自己流な解釈。本文は表記も単語も違ってる。気になる方はぜひ雑誌を)
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デジタル写真の本質は、写真史が培ってきたアイデンティティーとは別次元に現れる。
アナログとの比較に過ぎなかったこれまでのデジタル写真論をあらため、写真という概念を更新する、我々がまだ知らない表現の可能性に迫る。
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1.デジタル写真論の本質を問う前に ―― 写真史におけるアナログ思考からの脱却
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これまでのデジタル写真論は画像加工の有無痕跡性の有無という二つの論点を巡ってきた。
これはデジタル写真をアナログ写真のネガ(陰画)として論じる思考に由来する。
(このような短絡的な区分は、日本における「デジタル/テクノロジー/パソコンやアプリの登場と発達」の受容と「コンポラ写真(ポストモダンな作品群)」との遭遇が同時期だったことに主な原因がある)

不十分な考察だし、不健康・不健全。

モダンの枠組みに属さない写真 ―― 「デジタル技術をもって、アナログ写真を“なぞる”だけではない写真」こそがデジタル写真の名に値する。
社会のデジタル化は従来の写真の枠組みをも変化させたのであって、その枠組みを動かさずに、デジタルカメラやフォトショップの使用うんぬんをもって「デジタル写真」の定義とするのは妥当ではない。
(画像加工の有無がアナログとデジタルの境界線ではない)


【 アナログ写真が前提としてきた概念的なフレーム《二元論》 】

 あるがままに存在するリアルな世界
 (自然、真実、裸形、混沌、流動)
         VS
      表象の世界
 (作為、虚偽、装飾、体系、固定)


―― アナログ=モダン写真という等式が不可避的に孕んでしまう“無限ループ”
モダン写真および写真論は「作家意識を捨てた写真家が「リアル」にむけてシャッターを切って生み出す1枚の写真(A.)」を前提にする。(ファンタジー、先入観、ナルシシズム、固定観念……)
これは『1枚の写真の「1」を「リアル(=アイデンティティ)」の「1」と結びつけて疑わない』ステレオタイプな態度。

しかし、本来は写真もひとつの表象である以上、「リアル」でも「わたし」でもないため、「1」として確立・成立・自律していない。むしろ「そうでありそうで、そうでない」という不完全性に特徴がある。(作品にしても、個人にしても同様)
つまりモダン写真に定義された(決め付けられた)「1」の前提=二元論は成立しない。
(写真や個という存在、あらゆる芸術を成立させる原理・原則に照らし合わせたら、不当であり誤解とわかる)

「リアル」や「わたし」のあやうさ、あやふやさ、揺らぎは、上記した「アナログ写真が前提としてきた概念的なフレーム」の対立軸、対立項をも失効させるのだが、あたかもこの対置が正しいかのように語られ(盲目的に信仰され)る状況/心理は行き場を失くして彷徨う定めにある。こうして写真が(アーティストが)揺れ動き、答えの出ない循環(計算式の立て方からして間違っているので答えもなにもない)=無限ループから出られない。(撮り手も受け手も、語り手も)
これがアナログ=モダン写真の様相《病態》だ。

―― 写真論のアナログ症状
さらにデジタル写真をテーマにした論考についても底の浅さが否めない。
たいがい、デジタル写真論は「インデクス性の欠落」と「レフェランの希薄さ」 ―― つまり「デジタル写真の存在論的位相の話」に終始する。
『「かつて・あった」存在(レフェラン)から出た光が、不可逆的に感光物質を蝕んだその物理的痕跡(インデクス)を「いま・ここ」で目の前にしている』というアナログ写真の価値(ドラマ、美学、遺産、美しさ、健気さ、かけがえのなさ、素晴らしさ……)が、いわば「存在との直接的な紐帯」が、デジタル写真からは失われいる ―― と。
これは上に記した(A.)に通底する「アナログ写真的なフレーム=アイデンティティの喪失」の嘆きであり、じつにナイーブなスケッチだ。
(妥当でもなければ考察もしていない。感傷的になっているだけで、デジタル写真の本質を見つめようとしていない)
さらにはこのロジックはデジタル写真の本質を不問に付し、アナログ写真を延命させるために発明されたミスリードに過ぎない。
(言い換えれば“ふるきよき写真観”に依存したアイデンティのオブセッションによる、しごく感傷的な糾弾/排撃)
騙されたらいけない。

2.現代作家たちの表現に迫る ―― トーマス・ルフ、そして写真最初期との接点
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さきに述べたように、アナログ写真は「本来は人の肉眼で見えないリアルに接近(肉薄、暴露)し、そのアイデンティティを捕らえようとする、つまり不可視のアイデンティティを確保するメディア」として理解されてきた。
(やるのは撮り手であり、できているかどうかを判断するのは識者であり、撮り手への追体験と識者が分析した言葉とのマリアージュでもって神秘的な時間を過ごそうとするのが受け手という役割分担=三位一体)
じつのところ、現在デジタル写真として流通している(デジタル写真だと認識されている)多くは、デジタルエフェクトを加えたアナログ写真だ。

ならば「デジタル写真」とは、その働きとはなにか。

 A これまで前提とされてきた写真フレーム、ターム、ジャンルを相対化(映画が現実の、アナログ写真が絵画の本質や役割を再認識させたような対立項=作用/機能)する。
 B まだよくわかってない。デジタル写真がなんなのか。実態や正体についても、その可能性についても・・・よくわかっていない。

―― Aについての予見
1.デジタル写真は、黎明期の写真/写真家がやったこと(※2)を省みれば、概念的/技術的なフレームを成立させる時点前後の写真の在り方を蘇らせる。
2.モダンなフレームが排除した最初期写真の「特性・性格・技術・様相」に回帰し、すなわち「すでに古びているとされる技術や発想」をひもとき、結びついて再生させる。(原点回帰の相)
3.技術的に未熟・不足・未発達だった黎明期のメカニズム=抑圧的フレーム(そうでなければ写真が撮れなかった、映らなかった、印刷できなかった……などなど)を、デジタル技術を駆使して有機的(現代的、弁証法的……)に再現・再生する。

(※2)黎明期の写真家や写真批評家は、新しい写真術や芸術論よりもピカソやブラックなどアヴァンギャルドな画家の試み(それも、すこし時代を下った、その当時にしてみても「若干ふるい」メソッドや理論)に写真の特質やアイデンティティを模索した。
音楽史を参照しても、たとえば巨大シンセサイザーによるクラシック音楽をデジタル加工した富田勲の音楽が忘れられがちで、単純な旋律とチープなデジタル効果のサウンドだったクラフトワークが今なお新鮮という手がかが得られる。
「最先端のメディアやネット環境だけが最先端のデジタル写真を生み出す母体」という考え方には賛同できないし、おそらく間違っている。
本質的なデジタル写真の探究は原点回帰し、アナクロニズム(時代錯誤・時間交錯 ―― すでに失われたり古びていたり、使われなくなったメソッドやアイデア ―― 写真が生まれた時代に開発・発明された諸体系・発明・技術・・・)と邂逅を果たす。
来るべきデジタル写真とはここに産声をあげるだろう。


3.未知の可能性 ―― 写真のアイデンティティ更新の最先端
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・上記「B ―― 正直、デジタル写真って何なのか、まだよくわかってない」について
デジタル写真は未知のメディアだが、知るための手がかりは見つかる。
デジタル写真の解像度は、ついに印画紙=人間の目(の性能)を通り越し、動画と静止画の区別も簡単にはできなくなった。
これらはフィルムを前提とした写真観に納まらない現象だ。
デジタル写真はアナログ写真の擬態であることを止め、従来の写真のアイデンティティをさまざまなレベルで破壊し、連続的な表現へと展がりながら本性をさらすだろう。

・連続的な表現=デジタル写真の特性
「連続」とは無限に分割可能なことであり、それによってすべてが横滑り的につながることである。
デジタル写真は、かつてのように特定のメディア(フィルム、ネガ、印画紙、溶液、暗室……)に依存しない。
さらには「再現された光像はおおよそ写真である」とすれば、映写/投影される媒体はスクリーンであろうとパネルであろうと壁や立体であろうと……もちろんモニタでもテレビでもよし……増幅も増加も、コピーも同時上映も思うがままだ。アナログ写真の概念・スケール・様態とは次元を違える。
すなわちアナログが妄信してきた作品=リアル=アイデンティティ→「1」という自同性は解体され ―― 「1」枚の写真は多数の写真への経絡 ―― このとき「1」は複数化される。
あの“モダンなフレーム(フィルム写真および写真家、識者が愛好し、過信し、固定化させた“写真”の概念や様態の定義)”が抑圧してきたのは他でもない、あらゆるアイデンティティを脅かす、写真のこの原初的な力だったのだ。

(今後「ピント、絞り、色味、トリミング、レイヤー、静止画と動画……アナログ写真を構成していた要素や概念」は、デジタル写真の特性に均され、蘇生する写真本来の力(単数=複数性)とともに更新されていくだろう)

―― デジタル写真のトップランナー
最先端の作家の一人が松江泰治だ。
松江写真の諸特徴は、従来の写真観・基準・優劣の観点=写真美学とは別のベクトルからもたらされている。
たとえばピントは受け手に与えるニュアンスを繕うために施されているわけではなく、解像度を上げて潜在的画像を掘り起こした結果でしかない。(=美的感覚、作家の自意識による印象操作ではない)
色にせよトリミングにせよ、作家の美的感覚や意匠の託された写真技術とは別の次元で調和している。
静止画と動画の区分もまた、観念的な二元論「記録=死VSライブ=生」には依拠しない。
彼はデジタル写真の特性である「ピクセルの配列次第で、時空間の点線面が途切れなく連続する」というポテンシャルを汲み、凍結した時間と流れゆく時間の狭間を映し出す。
(写真でも動画でもない、停止でも流動でもない、停止であり流動であり、写真であり動画であるような「デジタルならでは」の映像世界)
この「動く写真(はっきりとは動かない動画)」が、アナログ写真の固定的・墓標的な写真観を揺さぶる。
ここに、いわゆる静止画でも動画でもない、あらたな中域=いまだ全貌が見渡せないデジタル写真の可能性の示唆がある。

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デジタルについて ―― 荒木飛呂彦
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日経トレンディ
「『ジョジョ』が25年続いている理由」―荒木飛呂彦氏が語る
2012年10月19日
荒木氏:僕が思うのは、デジタルって否定すべきことではないけど、デジタル作品はアナログに戻れないんですよね。一方で、紙に描いたイラストやマンガは簡単にデジタルに変換できる。だったら、アナログで描いていたほうが有利かなと僕は考えていて、紙へのこだわりは捨てたくないですね。
今回、「荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展」をやらせていただいているんですけど、それはデジタルで描いていたらできなかっただろうなと思います。
こういうアナログに対するこだわりというのは、ヨーロッパでリアルの芸術作品から受けた衝撃、そういう原体験みたいなものが少なからずあると思いますね。















posted by bibo at 20:36| Comment(0) | TrackBack(0) | BOOK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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