2013年02月14日

『リトアニア/畑中幸子(要約)』と『カチンの森』




リトアニア―小国はいかに生き抜いたか (NHKブックス)

------------------------------------

●日本の単一民族イデオロギーを揺さぶるリトアニアの民族問題 4
小国リトアニアの実情を伝えることが、「民族問題」に対する日本人の鈍い感性を刺激するのに恰好の例を提供すると思った( 中略 )単一民族国家のイデオロギーのもとで近代の政治・社会への展望を作り上げてきた日本は、国家の安定した枠組みを内部から動揺させるような民族間題に対処しうるビジョンを持たずにきた。しかしながら、今後はそれでは済まない。民族間題は、その解決を二一世紀に持ちこされようとしている。私たちも人ごとではない。従来までのアイヌ民族、在日中国人、朝鮮・韓国人に加えて、合法ならびに非合法の外国人労働者が
日本には既に多数居住しており、この趨勢は弱まることはないであろう。もしも北方領土が返還された暁には、ロシア人など旧ソ連邦出身の人々を社会の一員に迎え入れることにもなるからである。 

●リトアニアは存在し、リトアニア人は消える
旧ソ連に主権を奪われていたリトアニアでは民族問題はタブーであった。「リトアニアは存在するであろう。しかしリトアニア人はなくなるであろう」と民族の計画的絶滅を企てた旧ソ連の策略にもめげず、リトアニアでは「民族」は健在であり続けた。4

●リトアニアの夏 42
リトアニアでは短い夏の間が農繁期にあたる。ライ麦、紫色のきれいな花をつけている亜麻、じゃがいもの収穫期でもある。

●小さな村のメロディ〜森の兄弟、パルチザンの誕生 43
戦争末期、退却するドイツ兵が村にやってきて豚や作物を略奪した。ズザナは怖くなり、子供たちを連れバブルンゲ川を渡ったところでドイツ兵に出会った。子供が泣きだしたため、士官がやってきて、「子供が泣くと居所が敵にわかるから泣かせるな。家へ戻れ」と言われ、みなで来た道を引き返した。やがてソ連軍が戻ってきて、村の青年たちを徴用しはじめた。拒否した者は射殺された。「前線に送られ知らない土地でドイツ軍と戦って死ぬよりも、母国で死ぬほうがいい」と、大勢の若者が森に逃げ込んだ。彼らがパルチザン(ミシュコ・ブロリアイ=森の兄弟)となった。村に空襲はなかったが、銃で撃ち合っている音は始終開こえてきた。ソ連軍の将校が来て、農民が持つ馬と彼の貧弱な馬との交換を強要きれた。この村の女性がドイツ兵を地下室に匿っていたがソ連兵に見つかり、ドイツ兵は射殺され、女性はシベリアへ送られた。小さな村にもいろいろ事件があったのである。


8 世紀の悲劇 71
一九二〇年、リトアニアは帝政ロシアから離れ、穏健な国家を誕生させることに成功した。第一次世界大戦後に国家権力が樹立されたものの、リトアニアの安全は、領土拡張をはかったロシア、ポーランド、ドイツにより、二二年間に六度にわたって脅かされた。これら三国政府の計画には民族の根絶や国家の消滅も含まれていた。一九三九年、スターリンヒトラーの秘密取引により、モロトフ=リッペントロップ秘密議定書が結ばれ、二つの超強大国が一八世紀末と同じ手口でバルト三国とポーランドを分割した。リトアニアは、ソ連による国民の計画的絶滅政策(ジェノサイド)をウクライナ、ラトヴィア、エストニアとともに経験することとなった。それは、ナチスによるユダヤ人撲滅とともに二〇世紀の人類社会に例を見ない、凄惨な計画であった。


ジェノサイド 71
リトアニア国家に対するジェノサイドはリトアニアの東部から南西部のポーランド占拠地で始まった。ソ連共産党のリトアニア事務所の責任者ススロフは「リトアニア人なしのリトアニアがやがて存在するであろう」と豪語した。
ソ連によるリトアニアのジェノサイドは様々な形で現れた。リトアニア市民の抹殺、シベリアへの流刑、経済機構の破滅、共産主義イデオロギーの定着、宗教の撲滅、植民地化、ロシア化へのレジスタンス及び反体制派の掃討であった。国家の物理的・民族的撲滅を目的にあの手この手を使った。
ジェノサイドは一定の時期を決めて行われたこともあれば、恒常的に行われていたこともある。ソ連共産党政権は国の政治的、経済的、学術的、文化的エリートを撲滅することなしに国家を消滅させることができないことはよくわかっていた。リトアニア占領後、直ちに国の大立者のシベリアヘの追放、レジスタンス勇士や反体制派の人々の逮捕が実施された。

リトアニアからの追放者の登録と名簿の作成はリトアニア人の手によって行われた。
このことはリトアニア人にとって衝撃を与えた。 72


平和に暮していたリトアニア市民の虐殺は秘密警察とリトアニア全土にいるソ連の占拠軍によって行われた。
明確な理由もなく、知名の士というだけで殺された市民は七〇〇人を越えた。
弾圧されたリトアニア市民の名簿は独立後、様々な情報源から、二万七八〇六人分が集められた。彼らのうち四八四〇人の運命は知られていない。 79

リトアニアの植民地化、ロシア化、ソヴィエト体制への協力者の増加、リトアニアに残っていたリトアニア国民の精神的破壊は加速された。これらは一九九一年、リトアニアが独立国家として再び誕生するまで続いた。共産主義者の暴挙、つまり一九四〇年から四一年と一九四四年から五三年に精神的、肉体的絶滅を謀ったリトアニア人加害者や組織した者は、今もって罰せられていない。 81


6 国家のパニック 54
・最後通牒と粛清
第二次世界大戦前夜、ヨーロッパでは大国の利害をめぐり国家間の取引きが行われていた。
一九三〇年半ば過ぎ、バルト三国は刻々と迫るヨーロッパ動乱には中立の立場を取ることを考えていた。その矢先の一九三九年八月二三日、独ソ不可侵条約がスターリン政権とヒトラー政権の間で締結された。この条約とともに調印された秘密の付属議定書、いわゆるモロトフ=リッペントロップ協定がその後のバルト三国の運命を決めてしまった。
バルト三国のソ連への帰属が、両大国により勝手に決められたのである。
ナチスドイツは、国際連盟によってリトアニアに統治が委任されていた都市、タライペダ(メーメル〉を要求していた。リトアニアは、大国ドイツを恐れていた。クライペダを割譲しない限り、ドイツ軍がリトアニアに進駐してくることは目に見えている。外部からの応援は全く期待できず一九三九年三月、ついにリトアニアはドイツの最後通牒を受け入れたのである。

一方、ポーランドがロシアから一九二〇年一〇月九日、ヴィルニュスを奪取して以来、リトアニアの反ポーランド感情は強くなった。一九三九年九月一日、ドイツのポーランド攻撃が始まるやリトアニアは中立の立場をとる声明を発表した。二つの隣国が戦争状態になったリトアニアは、国家の危機にさらされていく。

一九四〇年以前のリトアニアの政治状況は緊迫の連続であった。一九三八年から四〇年にかけてポーランド、ドイツ、ソ連から、それぞれの最後通牒を受けている。当時、リトアニアの新開はリトアニアの敵はポーランドであることを強調し、またドイツについても、クライペダの割譲は忘れられない旨の社説を掲載した。一九三八年、ポーランドがリトアニアに最後通牒をつきつけた。第一次世界大戦以降、両国間に外交関係はなく、「外交関係の復活か、戦争か」と囁かれた。国内のどこでも話題はポーランドやドイツに集中し、ソ連のことは滅多に話題にならなかった。

一九四〇年、ソ連軍兵士が暴行を受けたという小事を理由に、ソ連は最後通牒をリトアニアに叩きつけた。リトアニア政府は一九四〇年六月一四日、最後の閣僚会議を開いた。
スメトナ大統領、ムスティキス国防相、ヨカンタス文相、シャカーニス長官(国家監察局長官)の四閣僚のみが、最後通牒の受諾について反対投票した。
最後通牒を拒否することはリトアニア国家の消滅につながるとして、多数の閣僚が受諾賛成の票を投じた。

・内政干渉と晒し首
ソ連はこの最後通牒で内務大臣スクカスと政治誰も察局長ポヴィライティスを裁判にかけることを要求してきた。リトアニア側の意向を待つことなく、モスクワの指令によりこの二人は逮捕され、直ちに処刑された。スメトナ大統領は閣僚たちに「自分はソ連のリトアニア占領を認めることができない故、国を離れる」と告げ、メルキス首相にすべてを委ねて去った。リトアニアとドイツの国境でドイツに身柄を拘束された彼とムスティキキス国防相はドイツ経由でアメリカヘ亡命した。ソ連邦併合の一週間前というのにメルキス首相、ウルブシス外相が逮捕された。ヨカンタス文相も逮捕され、流刑先で処刑された。シャカーニス長官はシベリアヘ追放されたが、一九五六年、リトアニアに帰国し死去。タモシャイティス法相は拷問のあげくに処刑、副首相であったビザウスカスも処刑、運輸相のマルセルーナスは流刑先で死去した。ソ連は占領後二週間の間に国の中枢にいた人々を流刑、処刑したばかりか、リトアニア政府のすべての機関を破壊した。カルバナウスカス大蔵大臣は西側への脱出に成功、オーディエナス農林大臣は流刑を免れカウナスの市役所で働いたが、ドイツヘ逃れVLIK(リトアニア解放最高会議〉のリーダーとなった。彼は一九四六年から四八年、ドイツのハナオのキャンプに収容されたが、四九年、アメリカヘ移住した。

第二次世界大戦が始まるやリトアニアの兵士たちはドイツ軍の来るのを待ち望んだ。誰もソ連軍に好意を寄せなかった。ドイツ軍がリトアニアへ進撃してくると、ドイツ軍はリトアニア軍に加わることを申し出た。しかし、国際条約によりバルト三国は中立を保つことになっていたのでリトアニア軍幹部はこれを拒否した。

・ソ連に制圧されたリトアニア軍の紆余曲折
リトアニア陸軍の士官としてカウナスの部隊に所属していたブザス氏からリトアニア軍の最期について話を聞くことができた。
ソ連は占領後、リトアニア軍を解散させずに「人民軍」という名で存続させることとした。ソ連邦へ併合後、人民軍はソ連軍の一組織、赤軍二九となり、指揮官にはロシア人が任命され、旧リトアニア軍の再教育が行われた。兵隊一人一人にソ連国家への忠誠を誓う署名を求めた。ロシア語やソ連軍の軍規、編成についてリトアニア兵たちは学ばねばならなかった。一八七二人の士官一二〇〇人の下士官、二万五〇〇〇人の兵隊が再訓練を受けた。そのような状呪のなか、リトアニア人のヴィトカウスカス将軍が赤軍二九で政治教育を始めた。軍人のある者は政治教育を嫌って逃亡したり、森林に逃げ込んでパルチザンに加わったりした。

ヴィトカウスカス将軍(彼の兄弟はリトアニア独立の戦いのとき、共産党のスパイだとして一九二〇年、リトアニア軍の手により殺されている)は一九四〇年四月、ラスチキス将軍の解任後、リトアニア軍総司令官に任命された。ソ連に完全に占領された一九四〇年にヴィトカウスカスはリトアニアのソヴィエト行政に影響を持つ人物となった。多くの人々は、ヴィトカウスカスはソ連の秘密工作によりリトアニア軍へ潜入させられたと思っていた。彼はリトアニアの最も緊急時にリトアニア軍の最高司令官となった。しかしヴィトカウスカスがソ連の手先である証拠はない。

・悲劇《ジェノサイド》
一九四一年五月、ソ連軍は旧リトアニア軍の解体を謀った。
六月、主だった将官、佐官はソ連軍士官としての研修コースを取るためモスクワへ送られた。赤軍二九のリトアニア兵たちは演習のため東部リトアニアのヴァレナとパブラーデの二か所へ送られた。西部リトアニアが避けられたのは、国境を越えてドイツへ寝返られるのを怖れたからである。
演習場に着くと士官・下士官が逮捕された。
三大隊の兵隊たちは演習という名目で森林へ送られた。ヴァレナでは直ちにソ連赤軍に包囲され、「手をあげろ、武器を捨てよ」と命じられた。パブラーデでは一人一人おびき出され、武器を取り上げられ逮捕れた。ブザス氏はこの部隊に属していた。二か所で二五六人の将校たちが逮捕された。続いてさらに六〇人が逮捕され、全部で一二〇人が射殺された。
ブザス氏は七年の刑を受け、シベリアのノリリスクのラーゲルに送られた。ここには主にリトアニア軍の将校や佐官が収容されていた。六〇〇人中一六〇人がラーゲルで死去、一〇人が処刑された。一五五人が祖国リトアニアへ帰国できたが、あとの人びとの消息は不明である。士官たちのなかには赤軍への編入を逃れパルチザンのリーダーになった者、ドイツ軍が進攻してきたときにドイツ軍に入った者もかなりいた。
ソ連軍によるこのリトアニア軍に対する措置はポーランド将校ら四〇〇〇人あまりが殺された「カチンの森事件」を想起させる。
(上の「カチンの森事件で、ポーランド将校ら四〇〇〇人あまりが殺された」という一節は古い(誤った)情報かもしれない。最下部(※3)に詳しく)

KGB 73
KGBは一九一七年にチェーカー(反革命・サボタージュ取締り全ロシア非常委員会)として創設されて以来、全歴史にわたるソヴィエトの保安機関を指す名称である。
リトアニア国内で活動していたKGB構成員の正確な数はつかめていない。


10 生き抜いた人々 87
一九四一年、突如リトアニアから二万人以上の市民が追放されたり、ラーゲル(収容所、キャンプを意味するロシア語)へ送られたことは内外のリトアニア人に大きな衝撃を与えた。一九四五年までに追放されたリトアニア人の五〇パーセントが死んだ。
処刑や追放ばかりではなかった。
一九四四年から四五年の間に約五〇〇〇人の市民がリトアニア国内で虐殺されたという事実も知った。一九四四年二月には一四四か所の農場で二六五人のリトアニア人が虐殺され、農場とともに焼かれた。
共産党にとって農民や労働者は同志ではなかったのか。
ソ連共産党政権ははじめからジェノサイドにより民族としてのリトアニア人を抹殺しようとしたことが明らかになった。
人々の物理的な抹殺はひた隠しにされていたが、後日、KGBや秘密警察(内務人民委員部)の記録がことの詳細とテロ組織の実態を暴露したのである。
一九四六年から一九五二年の間、ソ連による全追放者の六分の一がリトアニア人であった。とりわけ一九四一年から一〇年間の追放者は約二万八〇〇〇人と言われるが、厳しい極北地帯で病気、飢餓、耐えがたい重労働で、多くの人々が死んでいった。一九四四年から一九五二年、ラーゲルへ送られたその数は十四万二五七五人に達している。この膨大な数にはパルチザン兵士、コルホーズに非協力的な農民が含まれていると思われる。信じがたい話であるが、三〇万人を超す人々が期間の長短はあるもののシベリア追放、強制労働でラーゲルへ移された。国内でも二万六五〇〇人が殺害されたのであった。

ラーゲルには神父もいた。ある神父は畑で穫れたぶどうでワインまがいのものを作り、ミサを密かに行っていた。他の人々を励まし、機会を見ては団結をはかろうとした。コーラスのグループを作り合唱し、「食べ物もなく明日をも知れない命なのに」と、ソ連兵を呆れさせた。 157


●葦を喉《ストロー》に 110
逃亡した二人(のリトアニア兵士)はソ連兵に追跡された。昼間、川の葦の生えている中に身を隠し、人が近づくと水中に潜り葦の茎をストロー代わりにくわえ呼吸をした。


11 レジスタンス 116
・森の兄弟
一九八九年まで、リトアニア社会ではパルチザンについて何の情報も流されてはいなかった。
私が初めてリトアニアを訪れたときには、すでに独立後六か月という時間が経過していた。私の研究目的が民族間題であることを知っても、農村のみならず町でも誰一人としてレジスタンス、「森の兄弟」と呼ばれたパルチザンについて話そうという者はいなかった。一九九二年夏のことである。
バブルンゲナイ村のせせらぎの岸辺に座っていると小学生たちが集まってきた。女の子ばかりであったが、人見知りするでもなく可愛い。「何か歌ってくれない?」と話しかけると、小声で相談したあとみんなで歌いだした。調子外れの子もいたが、一生懸命に歌ってくれる。美しいメロディであるが哀愁を帯びており、何か悲しげな歌であった。「何の歌?」と尋ねると、「森の兄弟の歌」だという。これが、私がパルチザンの別名である「森の兄弟」という言葉を聞いた最初であった。
「森の兄弟?」私は、勘でただの歌ではないと思い、子供たちを待たせ急いで通訳を呼びに行った。
子供たちはこの歌を学校の先生から教わったという。それを開いた通訳は先生が勇敢だと感心した。歌の題名は「一つの窓がある小さな家」というもので、戦死したパルチザン勇士が残した詩に誰かが曲を付けたものである。

 一つの窓がある小さな家で
  糸車が動いている
 聞かれよ祈りの言葉を
  老いた母の畷り泣き
  なぜか誰もわからない
 緑溢れるうるわしの村で
  育った三人の息子
 樫の木のように強く
  敵から我らを守ろうと
 戦いにますらおは向かう
  聖なる戦いに身を捧げた
 楓の門の側で
  佇む老いた母よ 待たないで
 息子たちは再び戻らない
  シルヴィンタイで
  ラドヴィリシュキスで
  海辺の灰色の砂の中で
 命をなくした、ああ
  なぜか乙女が畑で泣いている
 妹が丘の森へ小径を作った
  なぜか誰もわからない

「森の兄弟」は通称ミシュキニアイと呼ばれていた。ソ連兵は彼らのことを「バンディタイ」と呼び、森の中での彼らとの戦闘を恐れていた。
パルチザンを助けた者はもちろんのこと、身内とわかれば容赦なくシベリアへ追放されることが周知されて以来、「パルチザン」は人々の意識から抹殺されてしまった。
パルチザンの身内は、ほとんどが農民であった。彼らは追放先のシベリアから帰国を許されて後、彼らに対する周囲の冷たい視線に耐えながら今日まで生きてきた。今もパルチザンに関する問いかけには貝のようになり、知らぬ存ぜぬで通されたのには当惑した。
プルンゲ地方で「サユディス」(※2 ―― ページ下部に詳細なセグメントあり)の先頭に立っていた女性がこの地方で活動していたパルチザンについて独自に調査を始めているというニュースが私の耳に入った。プルンゲの市立図書館に勤める彼女を訪ねた。彼女の協力でパルチザンに関する情報が入り始めた。

・パルチザン活動 119
パルチザンはリトアニア全土で五万人はいたといわれる。
そのうち約三万五〇〇〇人は確実に死亡したと見られている。

一九九三年、カウナスで初めて元パルチザン生存者の集まりがあった。障害者にされた者、老け込んだ者、病気をおしてきた者など、かつての愛国の青年たちは痛々しい姿で現れた。元パルチザンの一人が現在リストを作成中だが、生存している元パルチザンは、リトアニア全土で二〇〇人から三〇〇人である。一九四九年、パルチザンの司令部が閉鎖され、申し合わせで各地方ごとにリストの作成が行われた。しかしパルチザンが殲滅されたため、これらの資料の行方は不明である。一部だが、森の中にシリンダーに入れて埋めてある資料が発見された。シベリアのラーゲルでもかなり大勢のパルチザンが死んでいるほか、シベリア、カザフスタン、カリーニングラードには元パルチザンが帰国できないままに残っている。そのため生存者ですら正確な数字がつかめていない。
KGBの記録では、パルチザン二万人を殺害、同一万九〇〇〇人を逮捕した、となっている。

リトアニアでは一九四一年に入って、知識階級を中心に社会的に活動していたエリートたちがソ連共産党により突然逮捕されてシベリアの極北地方に送られたり、また独ソ戦の合間に国外へ脱出したりした。そのような状況下でパルチザンに農村の若者、小学校の教師、前共和国時代の陸軍兵士、学生、聖職者が参加した。

パルチザン活動は一九四一年六月、ドイツ軍の進撃でソ連軍が兵力増強のため、リトアニアで青年を召集しはじめたことに起因する。一九四四年、ドイツ軍の占領時に地下組織に入る若者が増えた。ソ連軍に徴兵されることを嫌い、ドイツとの戦闘で命を落とすより故郷の森で死ぬことを選んだ者もいた。また、この時期に結成された「リトアニア自由軍」のメンバーが、後日地下組織に入り、ソ連軍へのレジスタンスに加わった。パルチザンの活動が目立ちはじめたのはこのころからである。

前共和国時代に愛国教育を受けた若者の多くはソ連軍による占領・ソ連併合への抵抗としてパルチザン活動を展開した。また大戦後、ドイツ軍に編入されていたリトアニア兵たちは、帰国後、一九四四年から一九四五年にかけてパルチザンに加わった。パルチザンの武器はリトアニア軍が隠していたもの、ドイツ軍が撤退するとき残していったもの、秘密警察から盗んだものである。

一方、教育のある若者でもドイツ軍に加わり行動をともにした者も少なくない。
大国の犠牲になった国の青年たちは、受難で右往左往した。

パルチザン活動のピークは一九四七年から一九四八年にかけてである。
農民たちはパルチザンが活動しはじめて二、三年は積極的に協力した。それは彼らの息子や親類の若者がパルチザンに加わっていたからで、身内に限らず食糧、衣類、薬品などを提供したばかりか、時には自分の家の地下に彼らを匿ったりもした。ところがそうした農民がパルチザンを装ったイストリビテリ(※1)に摘発され、一九四六年にはパルチザン協力者とみられた農民が大勢シベリアへ送られた。
当時ソ連では農業が振るわず、より多くの労働力を必要としていたため、これら農民は農業振興のための労働を強いられた。森の近くに住む農民の中には、やってくる偽のパルチザンを恐れ転居するものも少なくなかった。
一方、秘密警察も昼間は農家へ聞き込みに、夜は同じ人物がパルチザンの制服を着て別の農家に現れるということがあった。農民も当初は森にいる身内のパルチザンに差し入れに出かけていた。秘密警察は一軒の家から一、二人が姿を消していると疑念を抱いた。彼らはパルチザンと農民の関係を察知し、関わった農民を片っ端からシベリアへ追放するなどして農民を恐怖に陥れた。

一九四五年から一九四七年にかけて、大規模な農民のシベリア(主として西シベリア)追放があった。
この中にはパルチザンの家族や協力者だけでなく、コルホーズへの移行に非協力的な者もかなり含まれていた。かつて協力してくれた農家にパルチザンが食糧の補給のため訪れたとき、農民が秘密警察に密告し、パルチザンが農家で射殺されるというケースも少なくなかった。食糧をはじめ物資が不足してきたパルチザンに農民とトラブルを起こさないよう、厳しい規律が新たに作られていた。

一九四五年以降、秘密警察はパルチザンを秘密裏に殺害していく方法へと戦術の転換をはかった。
一九四七年、パルチザン殲滅にソ連軍が介入し、イストリビテリは全体として少なくなった。イストリビテリはパルチザンにかなりやられた、とも聞く。一方、パルチザンが直接ソ連兵と対決するこのころになると、多くの老がパルチザンに協力した。物資の補給をしたり、メッセンジャーとして、若者たちが男女を問わず動いた。教会も協力した。

一九四八年に入ると、パルチザンの活動が困難を究める。リトアニア系ロシア人やリトアニア人秘密警察がパルチザンの中へ潜入し始めたからである。
仲間を失くしていくパルチザンにとって志願者は願ってもないことのように思われた。パルチザン側は当初、彼らを他地域から移動してきた本物のパルチザンかどうかを見分けることに腐心した。
森から連絡のために出た伝令が戻ってこないときには、秘密警察に逮捕され拷問に耐えきれず居場所を白状しているかもしれない。彼らは別の森へ移動した。

パルチザン兵士は家族の安全のため実名は使わなかった。互いに歴史上の英雄や動物の名前から取ったニックネームで呼び合い、このニックネームがサーネームとして使用された。リーダーのみニックネームのあとに暗号が付く。付いていなければ信用されない。署名に際しニックネームのあとに、例えばLVとかLBと付けてある。リーダー以外のパルチザン兵士には、地方名やグループ名がニックネームのあとに付く。彼らは農家を訪れたときには、互いを異なったニックネームで呼び合った。秘密警察のスタッフもイストリビテリもニックネームで行動していた。


(※1)イストリビテリ
KGBの下部組織に雇用されたリトアニア人。
パルチザンに扮して農民から密告を吸い出したり、パルチザンの悪評を流布して猜疑心を煽り仲間割れを引き起こすなど、KGBの手足となって殲滅作戦に協力した。
教養を身につけることができない低階級《暮らし》の出身者が多かった。


●拳銃と放火 149
パルチザンが全滅したとき、一人生き残った者が畑の真ん中にある農家の空き家に行き火をつけて、ピストル自殺したことを話してくれた。一人ではとても生きていけないと覚悟したのである。これに似た話を何度か耳にした。


●奪い返す誇り
「サユディス」(※2) 190
一九八八年の春、知識階級にリードされ、政治社会と民族自決の拡大を目指す大衆運動「サユディス」が他のバルト二国の人民戦線と歩調を合わせて生まれた。
「サユディス」は組織ではなく、最初から正式なメンバーシップといったものはなかった。民族再生の運動がソ連におけるペレストロイカグラスノスチにより始まったとはいえ、リトアニアで噴出してきたことは、これまでの民族主義者の地下運動が必ずしも孤立していなかったことを示している。
一九三九年八月二三日に署名された独ソ不可侵条約、及びその付属秘密議定書への抗議記念大集会がヴィルニュスのヴィンギス公園で開催された。一五万から二〇万と推定される人々が、それまで語ることのなかったことを討議するために公園に集まったのであった。人々はどのようにしてリトアニアの国土がソ連の一部になったのか知りたがった。議題は一九一八年から一九四〇年にかけてのリトアニアの歴史について、つまりリトアニア共和国の運命についてであった。戦間期にリトアニアは国際連盟のメンバーであり、オリンピックに参加した。ところが第二次世界大戦以来、ソヴィエト連邦の一部となった。本当のリトアニアはどこにあるのか、という質問をはじめ、ブレジネフ時代まで口にすることがタブーとされていたリトアニアのソ連併合や、独立を喪失していった真相の究明が叫ばれた。そして集会では次のような決議がなされた。

 一、ペレストロイカを支持し、民主化と民族の自立を目指す。
 二、独立の通貨を含む共和国の経済自立。
 三、リトアニア語の公用語化と民族の自立を目指す。
 四、スターリン時代に弾圧された者の名誉回復と犠牲者の慰霊碑建設。
 五、良心と信仰の自由


運動が高まる中で、民族再生の感情が強くリトアニア国民の心をとらえたことは明らかであった。「サユディス」の宣言は、人々を民族の自主拡大を求める民族運動に向かわせた。最初の「サユディス」グループは主として作家同盟、芸術家、学者、ジャーナリスト、芸術大学の学生らで理想を求めた。徐々にリトアニアのあらゆる職業の人々を団結させたが、運動のリーダーシップは知識人が取っていた。主導権を握る人々の半分は共産党員であったが、彼らはリトアニア政府とのコミュニケーションの重要なチャンネルを提供した。有名な作家、オペラ歌手、詩人たちの「サユディス」への参加は運動をかなり目立たせた。学術会議に属する科学者、若手の哲学者、経済学者らも「サユディス」にエネルギーを与えていたが、主導グループのメンバーに著しく欠けていたのは歴史家であった。一九八八年に居合わせたリトアニア系アメリカ人歴史学者のA・E・セン教授がこのことを指摘している。 

第二次世界大戦後のソヴィエト支配へのレジスタンスに対するリトアニア史家の態度は、運動が起きている時点でも非常に曖昧である。元パルチザンが口を揃えてわたしに嘆いたことでもあった。「サユディス」はペレストロイカのために出版物を発行し、社会における公的立場を高めた。パルチザンの手記も出版した。リーダーの一人であったユオザス(ドマルカス)・ルクシヤの手記はアメリカで英訳された。

「サユディス」の運動を進めるに当たって、セクレタリーが一名、事務職員が五名置かれた。「サユディス」は市民、企業からの献金があり、ある時期には短期間であったが、財源は豊かで一〇〇万ルーブルの貯金が銀行にあったことがある。

「サユディス」が絶頂のとき、リトアニア共産党も「サユディス」に参加した。
リトアニア共産党は一九八九年七月、ソ連共産党からの独立を決定した。これはソ連共産党の歴史の中で初めての出来事であり、共和国の自立化を促進する結果となった。独立が仮想から現実のものになろうとしていたのである。ソ連邦国家に対して「独立要求」の運動はもはや避けられなかった。バルト三国がソ連に対して分離・独立を主張したとき、ソ連は一九四〇年の併合自体、バルト三国側との合意によるもので合法という立場を変えなかった。しかし、リトアニア共和国外相ユオザス・ウルブシスの歴史的証言ともいえる回想録で明らかなようにスターリンとヒトラーの横暴、かつ強引なやり方で併合された。

 リトアニア共産党第一書記アルギルダス・ブラザウスカスと「サユディス」のメンバーたちは二、三か月は蜜月の関係が続いた。しかし、一九八八年二月「サユディス」はブラザウスカスと政治的に対立した。エストニアは、ソ連邦下の憲法にエストニア憲法を優先させたが、ブラザウスカスがこのやり方をリトアニアがとることに反対したからであった。
一九八八年七月にモスクワから戻った政党代表者の報告に約一〇万人の人々が集まった。八月二三日には独ソ不可侵条約締結の条約無効を求め、抗議デモに約二五万人の人々が参加した。デモ行進や集会ではこれまで禁じられていた民族の歌が歌われるようになった。バルト三国の首都を結ぶ約六〇〇キロメートルにわたり一〇〇万人の抗議の「人間の鎖」が作られた。一〇月にはエストニア、ラトヴィアでも人民戦線が結成され、三国が共和国の主権の回復を目指して共同の歩調をとることになった。この年に独立時代の国旗が民族の旗として認められた。

八月二三日の会合を主催した知識人たちは、彼ら自身は宗教的である必要はなかったが、歴史の中で重要な役割を持っていたということで、教会を認める用意があった。また、他のバルト国家と呼応して公害問題が取り上げられた。事故のあったチェルノブイリ原子力発電所と同じ型のイグナリア発電所はリトアニア国民を絶滅させると危惧された。「サユディス」のみならず、リトアニア共産党もモスクワの中央政府にその安全性について疑問を投げかけていた。

リトアニアでは「サユディス」により最高会議の議長に音楽院教授のヴィタウタス・ランズベルギスが選出された。
当時、地方の人は未だコルホーズのボス、つまり共産党に支配されていた。それでもヴィルニュスで起きていることはその日のうちに地方に伝わっていた。プルンゲ地方でもヴィルニュスで愛国的な人々が組織を始めたという噂が入る。エスニック・アイデンティティを訴えるかのごとく有志が集まり、土・日には考古学上の遺跡に出かけ、遺跡の掃除や整理を始めた。
一五人から五〇人が集まり、二か月ほど作業した。
ヴィルニュスでの政治家のモスクワからの帰国報告でモスクワのペレストロイカの話を聞くため、プルンゲから七人が参加した。ソ連下であったため、地方では人々が少し怖がっていた。プルンゲの地方政府の文化課の責任者が会合の参加にミニバスを提供したことに、政府共産党やKGBが抗議した。
2013_0214
(カチンの森の例があるように、本書が示す「数値」に関しては暫定的なものとして捉えている。あくまでも参考まで)






------------------------------------
カチンの森 zbrodnia katyńska/Катынский расстрел
------------------------------------
カティンの森事件は、第2次世界大戦中にソ連のグニェズドヴォ近郊の森で約22,000人のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者が内務人民委員部(NKVD)によって銃殺された事件。
「カティンの森の虐殺」などとも表記する。(以下もウィキぺディアから)
------------------------------------

●ポーランド人捕虜問題
1939年9月、ナチス・ドイツとソ連の両国によってポーランドは攻撃され、全土は占領下に置かれた。 武装解除されたポーランド軍人や民間人は両軍の捕虜になり、ソ連軍に降伏した将兵は強制収容所(ラーゲリ)へ送られた。 ポーランド政府はパリへ脱出しポーランド亡命政府を結成、翌1940年にアンジェへ移転したがフランスの降伏でヴィシー政権が作られると、更にロンドンへ移された。

1940年9月17日のソ連軍機関紙『赤い星』に掲載されたポーランド軍捕虜の数は将官10人、大佐52人、中佐72人、その他の上級将校5,131人、下級士官4,096人、兵士181,223人となった。その後、ソ連軍は将官12人、将校8,000人をふくむ230,672人と訂正した。

ポーランド亡命政府は将校1万人を含む25万人の軍人と民間人が消息不明であるとして、何度もソ連側に問い合わせを行っていたが満足な回答は得られなかった。
1941年の独ソ戦勃発後、対ドイツで利害が一致したポーランドとソ連は条約(en)を結び、ソ連国内のポーランド人捕虜はすべて釈放され、ポーランド人部隊が編成されることになった。 しかし集結した兵士は将校1,800人、下士官と兵士27,000人に過ぎず、行方不明となった捕虜の10分の1にも満たなかった。
亡命政府は捕虜の釈放を正式に要求したが、ソ連側はすべてが釈放されたが事務や輸送の問題で滞っていると回答した。 12月3日には亡命政府首相ヴワディスワフ・シコルスキがヨシフ・スターリンと会談したが、彼は「たしかに釈放された」と回答している。

●捕虜の取扱い
ポーランド人捕虜はコジェルスク、スタロビエルスク、オスタシュコフの3つの収容所へ分けて入れられた。その中の1つの収容所において1940年の春から夏にかけて、NKVDの関係者がポーランド人捕虜に対し「諸君らは帰国が許されるのでこれより西へ向かう」という説明を行った。この知らせを聞いた捕虜達は皆喜んだが、「西へ向かう」という言葉が死を表す不吉なスラングでもあることを知っていた少数の捕虜は不安を感じ、素直に喜べなかった。彼らは列車に乗せられると、言葉通り西へ向かいそのまま消息不明となる。

●事件の発覚
スモレンスクの近郊にある村グニェズドヴォでは1万人以上のポーランド人捕虜が列車で運ばれ、銃殺されたという噂が絶えなかった。独ソ戦の勃発後、ドイツ軍はスモレンスクを占領下に置いた際にこの情報を耳にした。1943年2月27日、ドイツ軍の中央軍集団の将校はカティン近くの森「山羊ヶ丘」でポーランド人将校の遺体が埋められているのを発見した。3月27日には再度調査が行われ、ポーランド人将校の遺体が7つの穴に幾層にも渡って埋められていることが発覚した。報告を受けた中央軍集団参謀ゲルスドルフは「世界的な大事件になる」と思い、グニェズドヴォより「国際的に通用しやすい名前」である近郊の集落カティンから名前を取り「カティン虐殺事件」として報告書を作成、これは中央軍集団から国民啓蒙・宣伝省に送られた。宣伝相ゲッベルスは対ソ宣伝に利用するために、事件の大々的な調査を指令した。

●発見当初の動静
4月9日、ゲッベルスはワルシャワ、ルブリン、クラクフの有力者とポーランド赤十字社に調査を勧告した。ポーランド赤十字社は反ソプロパガンダであるとして協力を拒否したが、各市の代表は中央軍集団司令部に向かい、調査に立ち会った。ドイツ側は赤十字社の立ち会いの後に事件を公表する予定であったが、4月13日には世界各紙で「虐殺」情報が報道された。このためドイツのベルリン放送でカティンの森虐殺情報が正式に発表された。
4月15日、ソ連及び赤軍はドイツの主張に反論し1941年に侵攻してきたドイツ軍によってスモレンスク近郊で作業に従事していたポーランド人たちが捕らえられ殺害されたと主張した。しかし捕虜がスモレンスクにいたという説明はポーランド側に行われたことがなく、亡命政府はソ連に対する不信感を強めた。ポーランド赤十字社にも問い合わせが殺到し、調査に代表を派遣することになった。すでに回収された250体の遺体を調査した赤十字社は遺体がポーランド人捕虜であることを確認し、1940年3月から4月にかけて殺害されたことを推定した。4月17日、ポーランドとドイツの赤十字社はジュネーヴの赤十字国際委員会に中立的な調査団による調査を依頼した。
これをうけてソ連はポーランド亡命政府を猛烈に批判し、断交をほのめかした。ソ連の反発を見た赤十字国際委員会は全関係国の同意がとれないとして調査団派遣を断念した。4月24日、ソ連はポーランド亡命政府に対し「『カティン虐殺事件』はドイツの謀略であった」と声明するように要求した。ポーランド亡命政府が拒否すると、26日にソ連は亡命政府との断交を通知した。
ポーランド赤十字社はカティンに調査団を送り込み、またドイツもポーランド人を含む連合軍の捕虜、さらにスウェーデン、スイス、スペイン、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ハンガリー、チェコ各国のジャーナリストの取材を許可した。さらに枢軸国とスイスを中心とする国から医師や法医学者を中心とする国際調査委員会が派遣された。5月1日、国際委員会とポーランド赤十字社による本格的調査が開始された。

●第一次調査
調査はソ連軍が迫る状況下で行われた。国際委員会は遺体の発掘と身元確認と改葬を行い、現地での聞き取り調査も行った。ドイツは「12,000人」の捕虜が埋められていると発表していたが、実数はそこまでには至らなかった。
発掘途中の調査では、遺体はコジェルスク捕虜収容所に収容されていた捕虜と推定された。遺体はいずれも冬用の軍服を装着しており、後ろ手に縛られて後頭部から額にかけて弾痕が残っていた。遺体の状況は死後3年が経過していると推定され、縛った結び目が「ロシア結び」だったことなどがソ連軍の犯行を窺わせた。
また、調査に同行したアメリカ軍捕虜ヴァンブリード大佐とスチュワート大尉は、捕虜の軍服や靴がほころびていないことから、ソ連軍による殺害であることを直感したと後に議会公聴会で証言している。
5月になると現場付近の気温が上昇し、死臭が強まったために現地労働者が作業を拒否するようになった。6月からは調査委員会と赤十字代表団が自ら遺体の発掘に当たった。明らかに拷問に遭った遺体や今までに見つからなかった8番目の穴が発見されるなど調査は進展したが、この頃になるとソ連軍がスモレンスクに迫り、委員会と代表団は引き上げを余儀なくされた。ポーランド赤十字社代表団は6月4日、委員会は6月7日に現地を離れた。
撤収までに委員会が確認した遺体の総数は4,243体であった。

●大戦中の西側連合軍の対応
イギリスは暗号解読の拠点であったブレッチェリー・パークでドイツ軍の無線通信を傍受し解読していたため、ナチスが大きな墓の穴とそこで発見したものについて気づいていた。
失地回復したソ連は1944年にカティンの森を再調査し、死体を再び掘り起こした。同年、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトはカティンの森事件の情報を収集するために、ジョージ・ハワード・アール(英語版)海軍少佐を密使としてバルカン半島に送り出した。アールは枢軸国側のブルガリアとルーマニアに接触してソビエト連邦の仕業であると考えるようになったがルーズベルトにこの結論を拒絶され、アールの報告は彼の命令によって隠された。アールは自分の調査を公表する許可を公式に求めたが、ルーズベルトはそれを禁止する文書を彼に送りつけた。アールは任務からはずされ、戦争の残りの期間をサモアで過ごすこととなった。

●大戦後の調査
1946年、ニュルンベルク裁判においてソ連の検察官はカティンの森での虐殺についてドイツを告発。彼は「もっとも重要な戦争犯罪の内の1つがドイツのファシストによるポーランド人捕虜の大量殺害である」と述べている。しかしアメリカとイギリスがこの告発を支持しなかったため、カティンの森事件についてはニュルンベルク裁判では一言も述べられていない。
この事件の責任が誰にあるのかについては西側でも東側においても議論が続けられたが、ポーランド統一労働者党の幹部たちはこの事件についてソビエト連邦に遠慮してか誰も真相を究明しようとはしなかった。この真相を問われることのない状態は1989年にポーランドの共産主義政権が崩壊するまで継続した。

1952年にアメリカ議会でカティンの森事件がソ連内務省によって1939年に計画され、赤軍によって殺害が実行されたと認定された。また1970年代後半のイギリスでは事件の1940年の日付で犠牲者のための記念碑をつくる計画があったが、冷戦下の政治情勢を刺激するとして非難された。

●冷戦後の調査
1989年、ソ連の学者たちはスターリンが虐殺を命令し当時の内務人民委員部長官ベリヤ等が命令書に署名したことを明らかにした。

1990年、ゴルバチョフはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ(Mednoe)とピャチハキ(Pyatikhatki)を含めてソ連の内務人民委員部がポーランド人を殺害したことを認めた。

1992年、ソビエト連邦崩壊後のロシア政府は最高機密文書の第1号から公開した。その中には、西ウクライナ、ベラルーシの囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリン及びベリヤ等、ソ連中枢部の署名入りの計画書や、ソ連の政治局が出した1940年3月5日の射殺命令や、21,857人のポーランド人の殺害が実行され彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたフルシチョフ宛ての文書も含まれている。

2004年、軍検察の捜査は「被疑者死亡」などの理由で終結した。捜査資料183巻のうち116巻は「国家機密を含む」との理由で公開されないままである。

●和解
2009年、ロシアのプーチン首相はポーランドを訪問した際、事件を「犯罪」と呼んだ。さらに2010年4月7日、プーチン首相はポーランドのトゥスク首相と共にスモレンスク郊外の慰霊碑に揃って跪き、さらに事件を「正当化できない全体主義による残虐行為」とソ連の責任を認めた。ただし、ロシア国民に罪をかぶせるのは間違っていると主張し、謝罪はしなかった。なお、4月10日に現地でおこなわれるポーランド主催による追悼式典に参加する予定だったポーランドのレフ・カチンスキ大統領が、搭乗したポーランド政府専用機がスモレンスクの空港付近の森林地帯に墜落して大統領夫妻及び多数のポーランド政府高官が死亡する惨事が起きた(ポーランド空軍Tu-154墜落事故)。この事故のため、追悼式典は中止された。
同年11月26日、ロシア下院はスターリンら複数の指導者が指令を下して起こしたとする声明を決議した。
なお2011年、墜落事件の追悼碑の碑文がロシア側により作り替えられ、当事件の記述が削除されていたために物議をかもした。






------------------------------------
“森の兄弟”と“森の人”
------------------------------------

宮崎駿が『風の谷のナウシカ』を描き始めたのが1982年。
この『リトアニア』は1996年が初版だ。
つまりナウシカにおける重要な登場人物(一族)「森の人」は、ここで畑中さんが解いた「パルチザン=ミシュコ・ブロリアイ=森の兄弟」にはインスパイアされていない。

だが、ナウシカの世界にあって「無知で残虐な人間に追い立てられるように森に入り、誇りと慎みを失うことを拒み、そこで死ぬことを選んだ“森の人”」と、リトアニアの国難にあって死を賭した若者達「パルチザン」の命運 ―― 生態/生体的な一致はどうだろう。

「森の人」は火を扱うことを拒否し、生成の母体であり宇宙といえる森林に衣類や子宮を喩え、星の再生 ―― 人類の終末に備えたた。そしてメシアのナウシカに添い遂げた。

一方リトアニア、現実に起こった戦争でパルチザンは、残虐非道のファッショ・スターリンの支配のもと全体主義に突き進むソ連ばかりか、なんと同胞であるリトアニア人の手によって殲滅されたという救いのない結末と ――

森の兄弟の死闘=地下政治運動はやがて源流となり、ソ連のペレストロイカやバルト二国の独立機運との共鳴の呼び水となったこと、そして20世紀の終わりにあってなお数百名が存命していたという光の一線と ――
K・N









posted by bibo at 12:32| Comment(0) | TrackBack(0) | BOOK | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/322284522
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック