2013年01月12日

雑感 (2013_01/12)

●01
芸能界のことなんかどうでもいいけど、おそらく入れ替わり激しんだろうから、そこで淘汰されない人にはなんらかの魅力(あく、つよみ、説得力、存在感・・・・・)があるってことは想像できる。
50ボイスの小池栄子ピタッとはまってんだよなー。誠実で真っ直ぐな性格が効いてる。
「あるトピックについて市井の人々がコメントする、それがテレビに50回映るだけの番組」なのに、これがどうしてああも面白いのかって、結局見られなかったんだけどさ。
一昨日はかなりハードに追い込んで、昨日はスタボロだった。
10日間も休みナシで突っ走ると電池が切れて動かなくなる体ってのが実感できる。
ギリギリギシギシ・・・・・異音を立てて体が崩れていくのとか、心の油が切れてギスギスしてくのとか、ほんとによくわかる。立ち上がるだけで息があがるっていう。
休め!
いやほんと休むのは怖い。休まないでやれるようになりたい。(人間なら無理か)
カズさんが「休むのも仕事」って言ってたけど、あれほんとだろうなあ。

●02
こないだのTV番組で牧野富太郎さんという植物学者を知った。
あたたかくて真っ直ぐな人柄がよく伝わってくるレポートだった。
ナビゲーターのいとうせいこうさんは「富太郎はなんでもできた。多才な天才。ダ・ヴィンチみたいな人だったと思う」といってたけど、おれはそうじゃなくて、牧野さんはとにかく植物が好きすぎてその気持ちが溢れかえり、文字の世界に留めるだけじゃ足らなかったんだと思う。だから植物を絵にせずに居られず(細密なスケッチ、いつのまにか身につけていたシュールレアリスムやキュビズム的な技法)、人を巻き込んでなお足りず、全国各地を植物行脚しながら植物たちとの愛を培った。こういう生活にまたまたふくらむ愛情が、牧野さんをあらたな行動や取り組みに動かし、やがて大いなる地平が切り開かれた ―― そんな幸福な循環、愛のプロセスが見えた。もともと多才だったと言えるだけの資質は具わっていたとはいえ、はじめから出来た表現のモチーフに植物を据えたというのは、だからちょっと違うんじゃないかなーと。(ダ・ヴィンチにしてもそういう人だったのかもしれないが)
二軒の家を建てられるほどの金をつぎ込んだという(極貧の生活で妻に5人の子どもを育てさせながら! 植物研究だけに打ち込んだというその鋼鉄のメンタル! 柔和な笑顔の向うに鉄のメンタル!)蔵書、凄かったなーあれ。「聖書にもいくつかの植物の記述があるので、蔵書に加わってるんです」って学芸員が喋ってたけど、富太郎さんの「植物を知りつくしたい、極めたい」というモチベーションがどれだけ強かったか伺える。植物が出てくるものなら何でも読んだし、読みたかった、彼は。
高知は恩師の故郷であもある。手紙書くかなー

●03
考え事は「自分/からだ」から切り離さないこと。
主体的であることが大事なんじゃなくて、問題や批判対象の渦中にあるのが自分だという事実を忘れないこと。
そして強く、厳しく、激しく批判したくなるテーマや事象というのは、おうおうにして自分を反映していて、「こいつクソ/あれはカス/みんなバカ」という苛立ちの正体は、たいがいコンプレックスやフラストレーションだよな……という情けなさから目を逸らさずに、しんどくってもその場に留まって辺りを見渡すこと。自分から切り離して楽にならないこと。
自分じゃないと思い込んだら、そりゃ気楽だし、なんだって言えるしな……やりたくなるけど……
いちど確かめ、そうでないことを確認してからじゃなければ、批判は外じゃなく内に向けるべき。
自分との接点や線(たとえ曲線や点線であろうと)を見つけたうえで、徹底的に考えて事実ありのままをトレースし、批判に進むべき。じゃなければ言葉なんて空言に過ぎない。いや、渦中に(火中に!)あるという自覚の上で考えられたら、かならず説得力と現実感が生じる。そして、やがて体が作り変えられる(再構築される)。
そんな手がかりとしての思索、記述。
そこまで行かずに、なにが言葉か。なにが小説か。
まず「小説を書け!」ということ ――



posted by bibo at 10:15| Comment(0) | TrackBack(0) | LIFE | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする