2013年02月09日

あの人に会いたい「大滝秀治」(NHK映像ファイル)


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俳優・大滝秀治さん。
独特の存在感ある演技で舞台やテレビで活躍した。
長い下積みを経て才能を開花させた大滝さん、役者魂一筋に生きた人生が語られる。

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役者というのは嘘の世界に生きるけど、嘘を見せるわけにはいかない。
(薄っぺらな演技や、うそ臭い台詞回し、お客さんを退屈させるような芝居はできない)。
そこをどうするかを悩むのが役者なのですね。


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削いで削いで削いで削いで、完全燃焼した青い光みたいな光芒、何もしない存在 ――
「上手さ/巧さ」を越えなければいい役者になれない。


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深い鋭い感性と、修練を経て得たテクニックを超えなければ「いい」という領域には達しない。

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宇野さんが僕に言いました。
「役者の仕事は点じゃいけない。いい仕事をして、つぎに悪い仕事をしたら点でしかない。いい仕事のあと、またいい仕事をする。そうすると点が線になり、やがて面をつくる」

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役者の仕事には今しかない。
今やれることをやるんです。

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宇野さんから「裏方に・・・」と勧められてなお役者を諦めず、劇団民芸で稽古してらした大滝さんは、四十歳を越えて初めて主演に抜擢される。
そして演技賞を受け、一気に脚光を浴びる。
(※『審判』の演技で紀伊國屋演劇賞を受賞。1970年(昭和45年))

「宇野さんには一度だけ褒められました」
このときの手紙も冒頭の賛辞、その一文をのぞき、すべてダメ出しだったという。
老境に入ってなお、
「削いで削いで削いで削いで、完全燃焼した青い光みたいな光芒 ―― 」と目を閉じ頭をふり、つばきを散らしながら演劇を語り止まなかった大滝さん。
たった10分の番組に、87歳の生涯の熱さを想像する。

ひとり、またひとり、舞台演劇や本物の映画に鍛え抜かれた、筋金入りの役者が居なくなっていく。
とてつもなく、さみしい。
生業は違えど同じO型の双子座として、志を継げたらと思う。


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【 出演 】
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●舞台
かもめ(1952年)
審判(1970年)
円空遁走曲(1973年)
払えないの? 払えないのよ!(1985年)
第二次大戦のシュベイク(1988年)
研師源六(1995年)
夏の盛りの蝉のように(1998年)
炎の人―ヴァン・ゴッホ小伝(2000年)
紙屋町さくらホテル(2001年)
巨匠(2004年)
山猫理髪店(2005年)
坐漁荘の人びと(2007年)
らくだ(2009年)[12]
どろんどろん(2010年)
帰還(2011年)

●テレビドラマ
密林を越えて(1958年10月24日、NHK)
夫婦百景(NTV)
第26回「聖女房」(1958年11月3日)
第61回「ファウル亭主」(1959年7月6日)
お好み日曜(NHK)
最後の橋(1959年6月14日)
座銅婚式(1959年11月15日)
雨の降る日は天気が悪い(1959年12月25日、KR)
この空の下に 第6回「愛の像」(1960年、NTV)
冬の海辺(1960年1月29日、NHK)
三菱ダイヤモンド劇場「直木賞シリーズ 終身未決囚」(1960年2月15日、CX)
戦争(CX) 
第2回「鼠」(1960年4月11日)
第25回「寮」(1960年9月20日)
東芝土曜劇場 第78回「若い刑事」(1960年9月10日、CX)
妻の詩(1961年1月6日、NHK)
ここに人あり(NHK) 
第165回「冬来たりなば」(1961年1月12日)
第170回「一粒の麦」(1961年2月23日)
サンヨーテレビ劇場「息子の青春」(1961年2月3日、NHK)
グリーン劇場 第20回「密航」(1961年2月18日、TBS)
決定的瞬間 第22回「天使昇天」(1961年6月1日、NTV)
プリンススリラー劇場(CX)
「蝮の家」前編・後編(1961年7月6日・13日)
「笑う男」 前編・後編(1961年10月26日、11月2日)
日立劇場「誕生日はきっと」(1961年7月25日、TBS)
女の園 紅葉狩(1961年11月19日、NHK)
インスタント都市(1962年5月12日、NHK)
文芸劇場 第39回「我が家の亡霊」(1962年7月13日、NHK)
松本清張シリーズ・黒の組曲 / 一年半待て(1962年、NHK) - 須村要吉
晩餐後の筋書(1962年、MBS)
東芝日曜劇場 第321回「冬の女」(1963年1月27日、TBS)
シャープ火曜劇場「まごころ」(1963年3月19日、CX) - ふみ子のおじ
大河ドラマ(NHK)
赤穂浪士(1964年、NHK) - 岡林杢之助
源義経(1966年、NHK) - 北条時定
春の坂道(1971年、NHK) - 木食上人
花神(1977年、NHK) - 二宮敬作
獅子の時代(1980年、NHK) - 甚助
独眼竜政宗(1987年、NHK) - 虎哉宗乙
八代将軍吉宗(1995年、NHK) - 徳川光貞
毛利元就(1997年、NHK) - 榮秀
連続テレビ小説(NHK)
おはなはん(1966年)
さくら(2002年) - 松下武朗(ジェームス・武朗・松下)、ナレーション兼任
泣いてたまるか 第35話「翼あれば」(1967年、国際放映 / TBS)
東京バイパス指令 第60話「もう一つの顔」(1969年、東宝 / NTV)
男は度胸(1970年、NHK)
木枯し紋次郎シリーズ(C.A.L / CX)
第1シーズン 第12話「木枯しの音に消えた」(1972年) - 箱田の六兵衛 ※大滝譲二名義
第2シーズン 第20話「上州新田郡三日月村」(1973年) - 徳左衛門
長谷川伸シリーズ 第6話「一本刀土俵入」(1972年、東映 / NET)
水戸黄門 (C.A.L / TBS)
第4部 第10話「あの紅が憎い -天童-」(1973年) - 北島将監
第43部 第20話「裏切り者は誰だ!? -日光-」(2011年12月5日) - 専修
赤ひげ 第24話「しじみ河岸」(1973年、NHK)
必殺シリーズ(松竹 / ABC)
必殺仕置人 第1話「いのちを売ってさらし首」(1973年) - 闇の御前(浜田屋庄兵衛)
必殺仕置屋稼業 第4話「一筆啓上仕掛が見えた」(1975年) - 桔梗屋仁左衛門
必殺仕業人 第10話「あんたこの宿命をどう思う」(1976年) - 弥蔵
追跡 第14話「幻(まぼろし)の天使」(1973年、C.A.L / CX)
太陽にほえろ! (東宝 / NTV)
第62話「プロフェッショナル」(1973年9月21日) - 糸山源次郎
第183話「金庫破り」(1976年1月16日) - 堀田常吉
荒野の素浪人 第2シリーズ 第16話「博徒狩り」(1974年、三船プロ / NET) - 田部井の波羅八
右門捕物帖 第23話「消えた男」(1974年、東映 / NTV) - 深川の文七
うちのホンカン(1975年 - 1981年、HBC) - 河西公吉 ※主演作(東芝日曜劇場ホンカンシリーズ)
前略おふくろ様(1975年 - 1976年、NTV) - 岡野次郎兵衛
痛快! 河内山宗俊(1975年 - 1976年、勝プロ / CX) - 森田屋清蔵
破れ傘刀舟 悪人狩り(三船プロ / NET)
第44話「青春の挽歌」(1975年) - 和泉屋徳兵衛
第87話「謎の梅屋敷」(1976年) - 鉄斉
同心部屋御用帳 江戸の旋風 第21話「二百両の女」(1975年、東宝 / CX)
江戸を斬るシリーズ(TBS / C.A.L)
江戸を斬るII 第19話「桜吹雪が闇に舞う」(1976年3月15日) - 石川圭庵
江戸を斬るIII 第18話「医は仁術か算術か」(1977年) - 沢田玄庵
高原へいらっしゃい 第14話(1976年、TBS) - 巨匠画家・原田一英
隠し目付参上 第6話「からくり三太はなぜ泣いたか」(1976年、三船プロ / MBS) - からくり御前
Gメン'75 第82話「刑法240条 強盗殺人罪」(1976年、東映 / TBS) - 片桐石松
人魚亭異聞 無法街の素浪人 第17話「狼たちの挽歌」(1976年、三船プロ / NET) - 和泉屋仙右衛門 
俺たちの朝(1976年 - 1977年、東宝 / NTV) - 滝村嘉市
特捜最前線(1977年4月 - 1979年9月、1980年7月 - 1984年12月、1985年2月 - 8月、1987年1月、東映 / ANB) - 船村一平警部補(刑事)
あにき(1977年、TBS) - 松井安全堂
白い巨塔(1978年、CX) - 裁判長
関ヶ原(1981年、TBS) - 北庵法印
北の国から(1981年、CX) - 北村清吉
ニュードキュメンタリードラマ昭和 松本清張事件にせまる 第22回「三億円事件の犯人は?」(1984年、東映 / ANB) - 平塚八兵衛
昨日、悲別で(1984年、NTV)
松本清張サスペンス 隠花の飾り / 遺墨(1986年、KTV)
とんぼ(1988年、TBS) - 伊能三郎
世にも奇妙な物語(CX)
『おじいちゃんの恋文』(1990年)
『まだ恋は始まらない』(1991年)
月曜ドラマスペシャル(TBS)
「代議士秘書の犯罪」(1990年) - 二連木代議士
「松本清張作家活動40年記念 西郷札」(1991年) - 西蓮寺住職
「親子弁護士の探偵帖」(1995年 - 1997年) - 戸田太一郎
忠臣蔵 風の巻・雲の巻(1991年、CX) - 吉良上野介
火曜サスペンス劇場 / 松本清張作家活動40年記念ドラマ「けものみち」(1991年12月、NTV) - 鬼頭洪太
風林火山(1992年、NTV)
決闘鍵屋の辻 荒木又右衛門 ※高橋英樹主演(1993年、NTV) - 大久保彦左衛門
並木家の人々(1993年、CX)
星の金貨(1995年、NTV) - 森岡四郎
竜馬がゆく(1997年、TBS) - ジョン万次郎
テレビ朝日開局40周年2000年山田太一スペシャルドラマ そして、友だち(2000年、テレビ朝日)
昨日の敵は今日の友(2000年、NHK) - 小川晃造
松本清張特別企画・危険な斜面(2000年、TBS) - 西島卓平
ある日、嵐のように(2001年、NHK)
鬼平犯科帳スペシャル / 大川の隠居(2001年、松竹 / CX) - 老盗・浜崎の友蔵
剣客商売 第3シリーズ 第2話「鬼熊酒屋」(2001年、松竹 / CX) - 熊五郎
ゴールデンボウル(2002年、NTV) - ボウリング場オーナー
最後の弁護人(2003年、NTV) - 花岡清十郎
乱歩R(2004年、YTV) - 小林芳雄
水曜プレミア / つぐない(2004年、TBS)- 河原勇男
人生はフルコース(2006年、NHK) - 生田正一
大麦畑でつかまえて(2006年、HTB) - 矢木沢敬三
ハケンの品格 第7話、第10話(2007年、NTV) - S&F会長
浅草ふくまる旅館 第2シリーズ(2007年、TBS) - 清水辰三郎
相棒 Season 6 第8話「正義の翼」(2007年、東映 / EX) - 脇田勝彦
東京大空襲(2008年3月17日・18日、NTV) - 現在の大場博人 ※日本テレビ開局55周年記念番組
課長島耕作(2008年6月25日、NTV)- 初芝電産・木野会長
監査法人 第5話、第6話(2008年、NHK) - 尾張部品会長・武田勝次
歓喜の歌(2008年9月7日、HTB) - 中村伊佐次
木曜劇場 / 風のガーデン(2008年10月9日、CX) - 認知症の老人 ※フジテレビ開局50周年記念ドラマ
母恋ひの記(2008年12月13日、NHK)
第8回文芸社ドラマスペシャル / 逆転夫婦の珈琲ワルツ(2009年2月15日、EX) - 吉沢毅
朝食亭(2009年3月8日、WOWOW) - 日野下老人
落日燃ゆ(2009年3月15日、東映 / EX) - 西園寺公望 ※テレビ朝日開局50周年記念ドラマスペシャル
さくら道(2009年3月17日、YTV) ※読売テレビ開局50年記念ドラマ
ぼくの妹(2009年、TBS)
花祭(2009年10月3日、CBC) - 白山乙弥
シューシャインボーイ(2010年3月24日、TX) - 鈴木菊治 ※テレビ東京開局45周年記念ドラマ
離婚同居 (2010年5月 - 6月、NHK)- ナレーション
天使のわけまえ(2010年7月、NHK)- 坂下広吉
ハンチョウ〜神南署安積班〜 シリーズ3 File.12「伝説の85歳老詐欺師」(2010年9月20日、TBS)- 増山吉雄
塀の中の中学校(2010年10月11日、TBS) - 佐々木昭男役
金曜プレステージ/産科医大河内あかね(2010年12月3日、CX)
NHKスペシャル「さよなら、アルマ〜赤紙をもらった犬〜」(2010年12月18日、NHK) - 朝比奈太一(現代)
「浅見光彦シリーズ」第40弾「棄霊島」(2011年5月6日(金曜プレステージ)・2011年5月7日(土曜プレミアム)、CX)※内田康夫作家30周年記念二夜連続特別企画 - 桧山泰造
金曜プレステージ「刑事・鳴沢了2〜偽りの聖母〜」(2011年5月20日、CX) - 鳴沢浩次

●映画
ここに泉あり(1955年、松竹) - 岸辺
姿なき顔役(1958年、日活) - 坂井健次
にあんちゃん(1959年、日活) - 西河
危険な女(1959年、日活) - 庄田咲次
十代の狼(1960年、日活) - 顔役
警察日記 ブタ箱は満員(1961年、日活) - ダイナマイト犯
何もかも狂ってやがる(1962年、日活) - 調査員
アリバイ(1963年、日活) - 陳
天国と地獄(1963年、東宝)新聞記者役
さすらいの賭博師(1964年、日活) - 相原
七人の刑事 終着駅の女(1965年、日活) - 山越刑事
二人の世界(1966年、日活) - 古田
燃える雲(1967年、日活) - 林泰三
黒部の太陽(1968年、日活) - 上条班長
野獣の復活(1969、東宝)
野獣都市(1970年、東宝) - 花谷
戦争と人間 第一部(1970年、日活) - 劉
呪いの館 血を吸う眼(1971年、東宝) - 老人
座頭市物語 折れた杖(1972年、東宝) - 飯岡助五郎
子連れ狼 冥府魔道(1973年、東宝) - 慈恵和上
華麗なる一族(1974年、東宝) - 代議士・中根正義
悪名 縄張り荒らし(1974年、東宝) - シルクハットの親分
青い山脈 (1975年、東宝) - 井口基蔵
球形の荒野(1975年、松竹) - 岡野
金環蝕(1975年、東宝) - 法務大臣・神原孝
神戸国際ギャング(1975年、東映) - 楊徳元
同胞(1975年、松竹) - 松尾中学校校長
男はつらいよ 葛飾立志篇(1975年、松竹) - 住職
男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け(1976年、松竹) - 古書店主
不毛地帯(1976年、東宝) - 久松経済企画庁長官
犬神家の一族(1976年、東宝) - 大山神官
悪魔の手毬唄(1977年、東宝) - 権藤医師
八甲田山(1977年、東宝) - 中林大佐
坊っちゃん(1977年、松竹) - 狸
獄門島(1977年、東宝) - 儀兵衛
人間の証明(1977年、東映) - おでん屋の客
八つ墓村(1977年、松竹) - 諏訪弁護士
惑星大戦争(1977年、東宝) - 松沢博士
女王蜂(1978年、東宝) - 加納弁護士
火の鳥(1978年、東宝) - スクネ
皇帝のいない八月(1978年、松竹) - 野口
野性の証明(1978年、日本ヘラルド映画 / 東映) - 野村総理府長官
聖職の碑(1978年、東宝) - 渡辺
鬼畜(1978年、松竹) - 銀行の貸付係
赤穂城断絶(1978年、東映) - 山田宗偏
ブルークリスマス(1978年、東宝) - 竹入論説委員
男はつらいよ 噂の寅次郎(1978年、松竹) - 旅の雲水
病院坂の首縊りの家(1979年、東宝) - 加納巡査
影武者(1980年、東宝) - 山県昌景
地震列島(1980年、東宝) - 丸茂教授
思えば遠くへ来たもんだ(1980年、松竹) - 千厩校長
駅 STATION(1981年、東宝) - 相場
日本の熱い日々 謀殺・下山事件(1981年、松竹) - 唐沢
未完の対局(1982年、東宝) - 橋本隆吉
幻の湖(1982年、東宝) - 藤掛三河
迷走地図(1983年、松竹) - 法務大臣・三原伝六
居酒屋兆治(1983年、東宝) - 相場先生
お葬式(1984年、ATG) - 雨宮正吉
タンポポ(1985年、東宝) - 老人
熱海殺人事件(1986年、ジョイパックフィルム) - 鬼島作二
めぞん一刻(1986年、東映) - 和尚
子象物語 地上に降りた天使(1986年、東宝) - 栗田宏
首都消失(1987年、東宝) - 北斗電機技術顧問・大田原精一郎
マルサの女(1987年、東宝) - 露口
帝都物語(1987年、東宝) - 織田完之
敦煌(1988年、東宝) - ナレーター
あ・うん(1989年、東宝) - 旅館の番頭
オルゴール(1989年、東映) - 今里恭平
黒い雨(1989年、東映) - 藤田医師
チスト みどりのおやゆび(1990年、東映) - ムスタッシュ(声優)
少年時代(1990年、東映) - 風泊の駅長
あげまん(1990年、東宝) - 千々堂
天河伝説殺人事件(1991年、東映) - 仁礼神宮
ミンボーの女(1992年、東宝) - プールの老人(ホテルの会長)
いのち輝く灯(1999年、北九州市&教育委員会&同和問題啓発推進協議会)- 盲目の老人・昭吉(声優)
どら平太(2000年、東宝) - 今村掃部
白い船(2002年、ゼアリズ・エンタープライズ) - 林太郎
スパイ・ゾルゲ(2003年、東宝) - 西園寺公望
偶然にも最悪な少年(2003年、東映) - 質店の主人
IZO(2004年、チームオクヤマ) - 茶室の老人
CASSHERN(2004年、松竹) - 上条将軍
蝉しぐれ(2005年、東宝) - 関口晋助
旅の贈りもの 0:00発(2006年、アクロスザユニバース) - 真鍋善作
明日の記憶(2006年、東映) - 菅原卯三郎
犬神家の一族(2006年、東宝) - 大山神官
母べえ(2008年、松竹) - 野村医師
ウルルの森の物語(2009年) - 知里辰二郎
春との旅(2010年) - 金本重男
大奥(2010年、松竹) - 村瀬の声
あなたへ(2012年、東宝) - 大浦吾郎 ※遺作

●吹き替え
陽気なネルソン(オジー・ネルソン)

●コマーシャル
大日本除虫菊
永谷園
公共広告機構(現:ACジャパン)
紀文食品
サントリー
やずや
CMのCMキャンペーン
柿の葉すし本舗たなか
ソフトバンクモバイル
家庭教師のトライ(「特捜最前線」の映像を使用)
ジョーコーポレーション(ナレーション)
BOSSコーヒー(サントリーフーズ、BOSSレインボーマウンテン)
タウンワーク(リクルート)
ナレーション
JOCX-TV+「ねこに、こんばんは。」(1990年10月 - 1991年9月、CX)
人間劇場「37歳序二段力士奮闘記あきらめてたまるか!」(1998年、テレビ東京)
体操の時間。(2007年 - 2009年、CX)
街道物語(2008年 - 2009年、テレビ朝日・BS朝日)

●ゲームソフト
大玉



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24:00 Eテレアーカイブス「写真家・東松照明」 (まとめ)


※ざっくりしたスケッチ

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Eテレアーカイブス「写真家・東松照明」 
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昨年末に亡くなった写真家・東松照明さん。
69歳で長崎に移り住み、被爆者の撮影を続ける東松さんを追ったドキュメンタリー


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『静かに時は流れて』(1999)
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八百屋の軒先で、威勢良く掛け声をあげる一人の女性。
黒髪で短髪、年は四十歳前後だろうか。
左目には白い眼帯がある。

彼女の名は浦川しずか。
被爆者二世、左目は義眼だ。

東松照明は浦川家を撮ってきた。
しずかの母、きよみが彼女とおなじ年齢だったときの写真も残っている。
居間だろうか、うすぐらい部屋の壁際に母と娘三人が並んで正座し、右端が三女のしずかだという。

しずかの母、きよみ。
原爆投下の日、爆心地から1.3kmの山奥で被爆。
水汲み場まで這った。
爆心地から歩いてきた被爆者が「水、水、水・・・・・」と呻きながら集まって、たくさん死んだ。

きよみは十三日間、防空壕で意識を失っていた。
父は死んでいた。
母、兄、妹ものちに死んだ。
13人家族で7人が亡くなった。
こんにゃくのような血の塊を吐いて。

きよみは結婚して子をもうけたが、悪夢にうなされた。
しずかの姉が回想する。
「母は悪夢にうなされて叫んだ。あんまりに声を出すから、これはいけないと揺り起こしたんです。近所に聞えるくらいの声だったから。母は自分でそれを気にして、タオルで口をまわりを巻いて寝た。私は『それじゃ窒息するでしょう』と叱った。それでも母は聞かず、タオルを咥えて寝ようとした」

東松
「被爆者を訪問すると、後姿で話をするんです。すこし襖や戸をあけ、前を向かない。表に出てこない。(ある人については)やけに首が白いという印象が残ってます」

東松
「しずかの目は原爆のせいでダメになった可能性が高いと主治医がいった。わたしの被爆者撮影のルーツはこの時にあります。彼女の目がないということが撮影の原点にある」

しずか、三歳。
悪性の腫瘍で左目の摘出手術。
麻酔が効かず「かーちゃんどこ、痛い痛い」と叫んだ。
十六歳。
呼びかけに振り返ると、男子生徒がぎょっとした。
片目の無い顔への驚きだった。
以来、しずかは眼帯をつけて外出するようになる。

障害、生きてることの苦しさ。
ほかにぶつける人がいない、母との衝突。

24歳で恋愛結婚。
母は猛反対した。

式の前、母に育てのお礼を伝えようとすると
「そんなことはよか」と後ろを向いた。
でも、娘の晴れ姿を眩しそうに見つめる姿もあった。

東松はしずかの新婚旅行にも付き添って撮影した。
「娘がいないから父親の気持ちはわからないけど、ああいう気持ちだったのかな。かるい嫉妬とね。なんだろうね、こんなに長く付き合うことになって。まあ好きなんだろうね、しずかのことが」

三〇(と、いくつか)歳で離婚。
東松は「人生はやり直しがきく」と励ました。
「東松さんは私にとって、お父さんのような感じでしょうかね」ときよみはいった。

しずか。
喉に腫れ物ができ、悪性かもしれないと町医者にいわれ、長崎原爆病院(?)で診察を受ける。
しずかは結果がどうであれ手術を受けるつもりだったが、その後も入院をためらった。
東松がかなりきつく、面と向かって入院をすすめた。
「たいがいのことはやり直しがきくけど、病だけは向うから攻めてきよる。一日も早いほうがいいんだよ」

しずかがひとり、居間の座卓を前に坐っている。
箪笥から紫色の包みを取り出し、カメラに向ける。
「これ、母の髪なんですよ」
薄くて長いレースの生地を解きながら、しずかは言葉を継ぐ。
「(最後のとき・・・・・)つめたくなっても母は母ですからね、ほっぺにチューをして、火葬場から出てきた母の骨をさっと・・・ポリポリって食べてね」
涙が溢れる。
「最近? 話しかけましたよ。『お母さん、わたし喉の奥にポリープができとっちょよ。取ればいいらしい。でも内科の検診を受けなければならないって。検診・・・そのとき、その結果・・・なにもないって祈ってね』って話しかけました」

しずか、かつて母と暮した家の跡地に立っている。
「母と一緒に、死んでしまった犬を埋めた。埋めたらクゥンクゥンと泣き声が聞える。掘り返すと、やっぱり死んでる。また埋める。クゥンクーンと声がする。掘り返しても死んでるんです。ずっと見てた母が言いました。『しずか、ここに花を植えよう。水をあげて育てよう』って」

長崎大学の保管室。
原爆で亡くなった人間の臓器(5000人分)が保存されている。
(一瓶ごとに被爆者たちの傷んだ臓器がホルマリン漬けに)

東松
「自分が死んでも写真は残る、原爆被害の物証となる」
「(しずかがポリープ、もしかしたらと思うと、やりきれない・・・)原爆投下から50年たっても新たな・・・放射能が原因かもしれない病気が出てくる。人殺し。反倫理的な兵器。それによる被害の凄まじさ。(それを)どうしたら撮りつづけられるか」

しずかは東松の説得もあって、入院して手術することを決める。
心臓病、肝炎、前立腺がん ――
みずからも病と闘う東松もまた、入院を控えていた。

浦川一家と東松は、ちかくの写真館で記念撮影に出向く。

しずかと三人の娘は装いを整え、化粧し、髪をといた晴れ姿に揃っている。
撮影の準備中、東松はしずかに、「左目のところに、(本物の)目の玉を描いてください」と頼んだ。
「左目? ここに?」
(東松は何を言ってるのだろう・・・と困惑気味のしずかは、それでも明るくオーダーを受け、鉛筆っぽいなにかを握ってやってみる)
瞼や肌にはうまく描けず、
「それなら、眼帯のうえからのほうがええか」
眼帯のうえからマジックで、しずかはあったはずの瞳の絵を描く。
子ども達がはやしたて、しずかも笑い、微笑みを浮かべながら東松はシャッターを切る。

しずか、カメラマンに向かって話す。
「目を描いてって言われて?」
(気にしてませんよ何も!といった口調で)
「八百屋のお客さんにも冗談で言い返すときあるんですよ、それなら目ン玉描いてくるけん!って(笑)」

東松
「彼女は、笑えるようになったんです。自分の目のことを、死ぬほど悩まされた時間の中で、こうして笑えるようになった」

東松は10年前、心臓のバイパス手術をして以来、半年に一度の入退院を繰り返していた。
木に喩えれば朽ち枯れの状態だという。
今回は血管のコンディションを見るための手術だった。
まだ半年は大丈夫だったと判明。

一方、しずかのポリープも良性で、手術をすれば完治するという結果が出た。
彼女は入院中の東松を見舞い、報告をする。
個室の病室、いつもと変わらぬ語らいがあり、
「東松さんは寝てなきゃいかんのに、わたしの写真撮らせてしまって」
寝巻き姿の東松は窓際に立ち、ベッドに座らせたしずかの写真を撮り続ける。

1999 8/8
語り 平田満


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原子爆弾投下
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●広島
広島市への原子爆弾投下
第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分に、アメリカ軍が日本の広島市に対して投下した。
(これは実戦で使われた世界最初の核兵器)。
一発の兵器により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万〜16万6千人が被爆から2〜4カ月以内に死亡したとされる。

●長崎
長崎市への原子爆弾投下
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分に、アメリカ軍が日本の長崎県長崎市に原子爆弾を投下。
(これは実戦で使われた二発目の核兵器)。
この一発の兵器により当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約14万9千人が死没、建物は約36%が全焼または全半壊した。





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長崎くんち(おくんち/くんち)
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長崎くんち(ながさきくんち)、長崎おくんちは、長崎県長崎市の諏訪神社の祭礼である。
10月7日から9日までの3日間催される。
国の重要無形民俗文化財に指定されている(昭和54年指定、指定名称は「長崎くんちの奉納踊」)。

「龍踊(じゃおどり)」「鯨の潮吹き」「太鼓山(コッコデショ)」「阿蘭陀万才(おらんだまんざい)」など、ポルトガルやオランダ、中国など南蛮、紅毛文化の風合いを色濃く残した、独特でダイナミックな演し物(奉納踊)を特色としている。

地元では一般的に「くんち」と呼ばれるが、お諏訪様(諏訪神社)への敬意を表し「おくんち」という人もいる。
「くんち」には「宮日」「供日」という字があてられることがあるが、その名称は旧暦の重陽の節句にあたる9月9日(くにち、九州北部地方の方言で「くんち」)に行ったことに由来するという説が有力である。

博多おくんち(福岡県福岡市櫛田神社)、唐津くんち(佐賀県唐津市唐津神社)と並んで日本三大くんちと呼ばれる。



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2013年01月29日

日本画家・山辰雄


※あくまでもMEMO《スケッチ》としての散文



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山 辰雄(たかやま たつお、1912年6月26日 - 2007年9月14日)は、日本画家。
1912年(明治45年)、大分市に生まれる。1931年(昭和6年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学、1936年(昭和11年)に卒業している。在学中から松岡映丘の画塾に入り、師事した。美校の卒業制作『砂丘』(1936年)は、砂の上に座るセーラー服姿の若い女性を俯瞰的に描いた洋画風の作品で、後の山の作風を思わせるものはほとんどない。
山は戦後まもない1946年(昭和21年)ころ、ゴーギャンの伝記を読んで感銘を受け、その後の作風にはゴーギャンの影響がみられるようになる。1946年、第2回日展に裸婦2人を描いた『浴室』を出品し、特選となる。1949年(昭和24年)には日展に『少女』を出品し、やはり特選となる。この頃から独自の幻想的な画風が定着する。

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NHK日曜美術館『いのちに触れた筆 日本画家・山辰雄』
出演
福岡伸一(分子生物学者)
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昨年生誕100年を迎えた、日本画家・山辰雄。
いま大規模な展覧会が、大分県・大分市の美術館合同で開かれている。
山は、東山魁夷、杉山寧と並んで日展三山と評され、日本画壇をけん引してきた。晩年の作品は、筆を細かく打ちつけるような点描風のタッチが重ねられ、独特の空気感で画面が埋め尽くされている。2007年に95歳で亡くなるまで、絵を描き続けた画家は、描くことで、いのちの本質に迫ろうとした。
「私の体、人間の体の組成は、宇宙を形作る物質とまったく同一のもので、それ以外の何も持っていません。考えてみれば、我々(われわれ)も星屑(くず)の一つと同一のように思えないでもない」
「原始時代よりもっともっと前から生物本然の何かと共通したあるもの、地上に生をうけた時の心、アミーバーの心とでも云(い)いたいものです。つかめないかも知れないが、死ぬ迄(まで)にはアミーバーの心とでも云うものを知りたい」
画家が見つめていた“いのち”とは。
分子生物学者の福岡伸一さんが、その世界を読み解く。
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番組が始まって15分過ぎたところから見たので、人生前半〜画家としてのスタートはわからない。
画風も違うらしい。

中盤から後半にかけて日本絵の具で細かな点を打ち、人物を描き出す技法を編み出していった。人生をかけて描いたモチーフは命。
パッとテレビつけたとき目に入った作品(なにかは忘れた)がピンとこなかったし、『聖家族』と銘打って家族を描いたり、『少女』というタイトルの作品のモデルがひとりの少女だったりと、おれが好きだったり捉われる方向性にはない作品だったので(1912年生まれといえばナンカロウやケージがいるし、カフカにしても『失踪者』を書きはじめる。同時代に生まれた画家の絵画にモダニズム(従来・伝統的なモチーフの取り方を再考したり、個人的にいかに言葉のイメージを超えるかという取り組み、などなど広義の意味で)を求めても不当じゃないだろう)、チャンネル変えようかと思った。
ドライヤーしながらぼんやり見てたら釘付けになった。

これが最後の作品(かな? 死ぬ一年前に“生まれて初めて描いた(公表した?)”という自己像)。

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見てのとおり全体的にぼんやりとしている。肖像の顔には目鼻立ちも輪郭も見えないし、人物の雰囲気も背景と一体になっていて、水彩絵の具やスプレーで描いたかのようにアモルフな印象がある。ところが接近して眺めると画面の端々までもが多様な効き色/挿し色をもって緻密に描かれているとわかる。
引き絵であらためてテレビ画面に作品が写されたとき、「ああ・・・・・これは作者にそっくり・・・・・」と思わされた。
そっくりというのは雰囲気やたたずまいが似ているということだけじゃなくて、本人が考えて挑戦してきた価値観や概念が十全に果たされているという説得力でもあった気がする。
山さんは「命は細胞ひとつづつがあって成立している。私は細胞にも心があるような気がしてならないんです」と語ってた(うろ覚え)。
このように「命」というモチーフを死ぬまで追求し、その肉迫が点描的な画風へと導き、その点のまとまり ―― タブローが人間を越えた存在の本質をあぶりだしていたのかな?
山絵画/点描的画風が「山さんの取り組みは、この一作に至るべき軌跡だったのでは ―― 」と思わせる臨場感、いわば彼が人生のすべてをもって山辰雄という“山”のプラトーに登りつめた感に満ちていた(NHKの文脈の立て方も大きく作用していただろうが)。
技法とモチーフとキャリアの推移とが三位一体となって必然的に変化(進化というのはやめよう)した山さんの画歴に、ひとりの人間が生きていくことの可能性と物語、そして現実のリアリティを見る。
山絵画がデジタル写真を成立させる「ドット」その正体と非静止性(アモルフ性/フラクタル性)の予言しているところも批評的な勘所だ。

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2013年01月23日

美の壺/file263 「波佐見焼」


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最近、オシャレでスタイリッシュな焼き物として大人気の「波佐見焼」。
長崎県波佐見町で、400年以上にわたって焼かれ続けた深い歴史を秘めています。

波佐見焼は、長い歴史の中でさまざまに姿を変えてきました。
骨とう通の間で、究極の侘び寂(わびさび)とされるこの茶碗(ちゃわん)も波佐見焼。
海を渡って、海外で親しまれた波佐見焼もあるといいます。
ユニークな美を潜める通好みの焼き物です。
知れば知るほど奥深い、波佐見焼の美に迫ります。

壱のツボ 海を渡ったエキゾチシズム

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京都にある喫茶店。
コンプラ瓶」とよばれる波佐見焼が飾られています。
不思議なオーラが漂うこの瓶は、お店の雰囲気を演出する上で、なくてはならない存在です。
喫茶店店主・横山晴美さん
横山 「形がすごくシンプルでかわいらしい。どんな花をいれてもだいたい馴染(なじ)みやすい。」



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インテリアとして愛されるコンプラ瓶には、意外な歴史物語がありました。
江戸時代、唯一貿易を許されたのが長崎・出島。
輸出用に、しょうゆや酒をつめた専用の瓶が、コンプラ瓶の正体です。

コンプラ瓶は、日本生まれなのに海外で親しまれる、という数奇な運命をたどったのです。
1つ目のツボは、
「海を渡ったエキゾチシズム」

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コンプラ瓶はどのように作られたのでしょう?
原料は、波佐見町で豊富にとれた三股陶石(みつのまたとうせき)。
鉄分を多く含むため、焼き上がりがくすんだ灰色になりました。


ぼってりした胴体は、揺れる船の上で安定を保つためです。
ところどころゆがみがあり、なんともいえない味わいがあります。
藍色で書かれた「JAPANCH」(ヤパンス)は、オランダ語で「日本の」という意味。
「ZOYA」(ゾヤ)はしょうゆ、「ZAKY」(ザキ)は「酒」を表そうとしたのでしょうか。
中に何が入っているか、一目で分かるように描かれました。

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交易用ボトルとしての機能を追求した結果、たどり着いたシンプルデザイン。
それが期せずして、コンプラ瓶に得も言われぬ風合いを纏(まと)わせたのです。
古美術店店主 四釜尚人さん
四釜 「江戸のエキゾチシズム、というか、焼き物の東西交流、そういうロマンを感じます。」

ロシアの文豪・トルストイが、一輪挿しとして書斎に置いていた、というエピソードも残っています。
波佐見で生まれ、世界中で愛されたコンプラ瓶。
その旅路に思いを巡らせてみるのも、楽しいですね。

弐のツボ 自由な無邪気の美をくらわんか

次に、国内で愛された顔をご紹介しましょう。
端正な白に、淡い藍色の絵柄が描かれた皿や碗。
“くらわんか”とよばれる波佐見焼です。

kurawanka.jpg

江戸時代、淀川を行き来する労働者たちに、「飯食らわんか!餅くらわんか!」と乱暴に食べ物を売りつけた舟がありました。
その時使われていた器が波佐見焼。
「くらわんか」というかけ声から愛称がつけられたのです。

この庶民の器を讃えたのが、民芸運動の父・柳宗悦です。
柳 「誠に技巧から見れば幼稚なものといえよう。だが不思議である。これらの雑器は、美になくてはならない一物を含んでいるのである。日本の染付として最も延び延びした自由なものである。」

2つ目のツボは、
「自由な無邪気の美をくらわんか」

波佐見の絵付け師・村上さんです。
くらわんかの魅力をさぐるために、当時の絵付けを再現してもらいました。

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1本の筆で、簡単な模様がさらさらっと描かれます。
1個2〜3分のペースです。
短時間で大量生産をするために、余計な装飾がそぎ落とされ、シンプルな強い線だけが残っていったのです。

絵付け師 村上三和子さん
村上 「ここまで書けたら私幸せだなって思うし、勉強したいなって思うのが一番ですね。やっぱりこの味は、なかなか到達できないですね。」

無心の作業の中から生まれたのは、究極の侘び寂。
素朴な自然のモチーフが単純化されるうちに、引き算の美にたどりついたのです。

630点ものくらわんかを集めたコレクターがいます。
大阪に住む藤田雅敏さん。

行きつけの居酒屋に、“マイくらわんか”を持ち込むほどの愛好家っぷりです。
藤田 「美しく見せようとか、そういった邪心がないために、ほんとに素朴な感じであたたかみを感じましたね。
いちいちなんかの文様をキレイに書こうとすると、どうしてもいじけてしまいますよね。それがないのがこのくらわんかの一番の特徴。」

日々の食卓で用いられていた実用の器。
くらわんかを手に、料理をかこみ、数百年前の人たちと一杯、と洒落(しゃれ)こんでみてはいかがですか?
参のツボ 機能美の白と暮らす

最後に、現代の顔をご紹介しましょう。
波佐見焼は、一般の家庭で知らず知らずに使われているのをご存知ですか?
あなたの白い無地の器も、そうかもしれません。

波佐見焼は、料理のプロにも愛用されています。
フレンチシェフ 原太一さん
原 「お皿も勝ちすぎないし、料理も勝ちすぎないというか、全部合わさってひとつのお皿に、ひとつの料理になる、という所だと思います。」
あらゆる料理に相性が良い、白い器。
これも、波佐見焼の今の姿です。

3つ目のツボは、 「機能美の白と暮らす」

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波佐見焼が、人々に親しまれるきっかけとなった究極の器があります。
1958年に登場した「G型しょうゆさし」。
装飾をそいだ完璧なフォルム。
真っ白で、柄はありません。
1950年代、華やかさが求められた戦後の日本に現れたシンプルな器は、社会に大きな衝撃をもたらしました。

「G型しょうゆさし」を作ったのは、波佐見の陶磁器デザイナー・森正洋(もり まさひろ)。
モットーは、「人々の生活に必要とされる確かな仕事」。
食器とは、何よりも使いやすい事が大事だと考えていました。

目指したのは、キレが良くて機動性の高いしょうゆさし。
口の高さや曲がり方などを変え、無数の試作品を作り、機能徹底重視のしょうゆさしを完成させました。

森と仕事をしてきたデザイナー・阪本やすきさんは、無地の美しいしょうゆさしの誕生をこう語ります。
阪本 「機能と形が完全に一体化しているので、さらにこれに絵柄が必要なのか?ということで、きっぱりと無地の状態で出されたんですね。」

毎日“道具”みたいに使える、健康的な美しさ。
その思いは多くの共感を呼び、シンプルな波佐見焼は多くの人々が愛用する器となったのです。
400年以上も前から、<実用>と<美>の世界を自由に行き来してきた波佐見焼。
「気がつけばそこにある器」です。










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2013年01月21日

SANAA 





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NHK/SANAA 建築の冒険
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世界の先頭に立つ日本人建築家「SANAA」。ルーブル美術館新館が去年末オープンし絶賛。新国立競技場のコンペは世界中のライバルとの闘い。"日本発"建築革命!
世界建築の先頭に立つ日本人建築家たち、その中心が「SANAA」。
妹島和世、西澤立衛、2人のユニットだ。世界の注目を集めたルーブル美術館の新館が去年12月にオープン。特殊なガラス、アルミを駆使した斬新な建物は絶賛された。総工費1000億円超の日本の新国立競技場の国際コンペでは世界中のライバルとの闘いとなった。被災地では住民とともに新たな街を模索する。"日本発"建築革命...その発想を詳細に見つめていく。

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SANAA

SANAA

SANAA

SANAA


ザハ・ハディッドの描き方は一面的(仇役っぽく)ってどうかと思ったが、SANAAのドキュメンタリー、全体的には見所がたくさんあって内容量が豊富な一時間だった。
妹島さんのキャリアはざっくり、西島さんのプロフィールにはほとんど触れず、主要なコンペの前後にフォーカスを絞ったところがすっきりしていた。見おわればSANAAというコンビがどんな建築家デュオなのかが何となく想像できるようになってて、あとは受け手が自分なりに調べるなり本を読むなり、金沢はNYでSANAA建築を体験するなり、手がかりが沢山あるVTR作り。

彼らがデビュー(?)したころからテーマにしてたっぽい「自然との調和」については、「震災後、これまでの意識は抽象論に過ぎなかったと猛省を強いられた」と西島さんが語っていたように、建築理念の根本が揺らぎ、いまでもきちんとした答え(有効な手立てや建築的な解決法)は見出せていないという吐露が聞えた(気がした)。
西島さんの晦渋的な表情からは、自然との共生とかそういうことを人間から言うってことが、どれだけ思い上がった意識かと、マグニチュード8を超えた地震になんて建築は無力だというニュアンスが汲めた。
(本人がどう考えてるかは、はっきりとわからない。地震じゃないにしろ、いつか壊されるものを作る建築家としての宿命みたいなものもあるだろう)

西島さんが一つの民家に900のデッサンを描いてクライアントに見せたとか、上に書いた震災や自然災害の威力と建築という重たいテーマに直面しているなど、具体的なトピックはあれど、一番惹きつけられたのはテレビに映っていても言葉にされない(ならない)ところだった。
それは佇まいというか雰囲気というか、超現代的な最先端の建築デュオがどのようなコンビネーションで活動しているのか(距離や関係性、タッグの質やリズムなども含め) ―― SANAAの主張、個性、感性などが伝わってくる臨場感ともいえる。天才がせめぎあう競争の激しい業界で、いま充実した作品を次々に発表している人物が、どんなキャラクターなのかにそそられる好奇心・・・・・
前々から思っていたような、妹島さんが感性担当で西島さんが実行者という、巫女×山伏みたいな配役とも無縁だったっぽい。
事務所のスタッフとの円座で案件が検討され、数ヶ月ものディスカッションによってプランニングが深まっていく製作過程を重んじているのだから、中心が妹島・西島のデュオであろうと、ふたりきりの建築製、芸術性に特化しない、コンビネーションというよりグループワーク中心で、建設事務所というものの成り立ちをうかがい知る。たとえばテニスやバドミントンのダブルスだとか、ゴルフにおけるゴルファー&キャディとも違うし、編集者と作家、兄弟歌手のキリンジみたいな二人組みとも重ならないやり方、成り立ちのように思えた。
テレビのカメラワークと編集の仕方でまったく印象が異なるだろうが、どちらかというとSANAAの二人は独立した建築家としてオフィスをシェアしてるような雰囲気に見えた。切磋琢磨や良好なライバル関係に発展していくカップリングとも違って、隣り合って顔をあわせれば挨拶して、近況を話すかといえばそういう間柄でもなく、一時ものすごくしんどい時期をともに生き抜いた戦友っぽい感じというか。でもそれは過去のことで、お互い大人だし忙しいし、あえて口に出すことではないね、という穏やかで泰然とした想像力に寄り添っているというか。

60分に満たない時間だったけれど、なんにせよモチーフを徹底的に分析し、反芻し、応用し、100回も1000回も繰り返すなかで深まっていく洞察や想像 ―― 肉迫する時間と経験に絶対的な核心を汲んでいく軌跡があった。
民家1件であろうと世界的なコンペであろうと、この姿勢は不変なんだろう。
いかにクライアントのカウンセリングをやり、そこで受けとった情報をイメージに変換し、クライアントの希望を実現していくか。
その気迫と過程。
建築は住居(人が過ごす空間)を作る仕事なので、まさに想像と実践がセットになっていた。
「100をづつではなく、1を100やる」が今年のテーマだが、西島さんは900やっていた。
その真髄に触れたい。


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NHK クローズアップ現代/建築が人をつなぐ 〜妹島和世・西沢立衛の挑戦〜
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フランスでルーブル美術館別館の建設が進んでいる。建築設計を担当したのは日本人の建築家。妹島和世さんと西沢立衛さんのユニット・ 「SANAA(サナア)」だ。去年、建築界のノーベル賞「プリツカー賞」を獲得するなど、世界から最も注目を集めている。彼らが創り出すのは「公園のような建築」。路地空間のある美術館や、室内が丘のように起伏する大学施設など、さまざまな仕掛けで人々の交流を生み出してきた。彼らの建築はなぜ共感を呼ぶのか。新たな建築の可能性に挑む2人にロングインタビューで迫る。

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出演者
妹島 和世(建築家)
西沢 立衛(建築家)
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【スタジオ1】
●建築のノーベル賞・プリツカー賞を受賞して去年、本当に、受賞されておめでとうございます。
妹島さん>>そんなにないですかね。
西沢さん>>変わったことありますかってすごいよく聞かれるようになりましたけど、あんまり変わってない僕らはあんまり変わってないかな。

【スタジオ2】
●世界が評価する「公園のような建築」について
西沢さん>>アメリカの人を案内するとみんな、金沢21世紀美術館とか案内すると、みんな驚くのは、そこで、こんなに開けっぴろげなんだっていう。子どもは走り回るわ太陽見てりゃさんさん入ってきて、これは一体、幼稚園なのかなんなのかっていう驚きっていうのがあって。彼らが思う、権威づけられた美術館っていうものと全く違う風景。それで、また町の人々が結構楽しそうにやっているという。そういうふうな形で美術にアプローチしていくっていうのは、あんまりイメージにないんだと思うんですよね。

妹島さん>>高い所から風景見たときが気持ちいいときと、もうちょっと谷底でちょっと包まれて、こう落ち着きながらやりたいとか。いろんなことあるわけですよね。やっぱり、いろんな年代の人が一緒にいられるし、それから、いろんな目的の人が、例えば、休憩している人もいれば一緒に遊んでいる人もいればカップルがいたりとか。で、同じ公園の中にいろんな在り方がありますよね。一緒にいて、だけど自分のプライベートな空間をそこに自分で見つけたり作れるし。でも、片方でなんとなく、どっかに世の中につながっているというかほかの人にも、つながってるってそんなことを感じることができるのが公園じゃないか。それで公共的な建築作るときでも、なんか、そういうような場所っていうのが
みんなの新しい公共空間としてあったらいいんじゃないかっていうことでそういうことばを使ったんですね。


●特徴である“開放感のある”建築について
妹島さん>>たぶん、見えればいいってもんでもたぶん、ないんですよね。だけどまあ、見えるというのは結構、働き方としては、うまく働く要素として多いですけど、何か差し出されているから町から行きたくなるとか、その建物に入ってもこの場所とこの場所からまたこっち行ってみたいとかしゃべってみたいとか。で、中から、また外に、もう1回町に出て行きたいというか。そんなようなものを作れたらなと。

西沢さん>>美術で壁立てて中見えなくなっちゃうと、相当な決意がないと入ってきてくれないんだけど、町を歩いてても美術空間があふれ出ていると、つまり、中と外の関係が作られてると、興味を持つチャンスが増えていく。それで、どちらかというとわれわれはその開くっていうのもあるんですけども、関係をつくるっていう。
建築自体は開かれていて関係的であって、特に何を言っているわけでもないんですよね。
何かに使ってほしいという期待があって、それに、ある魅力を感じたある種の人々が使い始める。独創的な形で使い始めるということを、たぶんわれわれは期待しているんだと思うんですね。まあ、ある意味押しつけてるんですけどね。相当、押しつけてるんですけど。

妹島さん>>だから、使いやすいもの作ってるって言われると、いや、そんなふうにはとても言えないだろうと思う。

西沢さん>>だから、使いやすいものは作ろうとしない。使いたくなるものを作ろうとしている。使う楽しさっていうものが中心にくるようなもの。

妹島さん>>それは、だから私たちも考えるけど、やっぱりいろんな人の意見聞いてみると、ああ、そんなこと使えたらいいなっていうか楽しいだろうなとか。なんかそういうようなことが、たぶん今のご質問につながってくるんだと思うんですけどね。


●今の時代の公共空間とは
西沢さん>>ケースバイケースなんだよね。

妹島さん>>だけど、まあ個人主義っていっても、やっぱりなんか個人がなんでも好きにやれればいいってことではないと思うから。みんなで一つにやっぱりある集まりみたいなのを作れる場所なんだけど、多様っていうのはみんな一つになるためにはみんな同じ人じゃなきゃいけないっていうことじゃなくて、いろんな人が、なんかやわらかにみんなで一緒になれる。だけど、それぞれも自分のやり方で多様に参加できるみたいな場所をイメージしてる。

西沢さん>>何か、多様性ということが夢がある、未来に向かって、なんかそっちに行ってもいいなと思えるようなもんなんだということを、なんか、空間的に描きたいというのはあると思うんですよね。やっぱり、個人という意見の違う、個性のあるいろんな人間が集まって、押し合い、へし合いしながら出来ていくっていうものが、やっぱり公共なのかなぁっていうふうに思いますけどね。


●インターネット時代の建築のあり方
西沢さん>>あえてというかそういう時代だからこそ、空間的に関係を持つということの価値が上がってるんじゃないかと。それは、インターネットを否定するというわけじゃなくて、たぶん、われわれはそういう時代、片方でバーチャルな、こういう関係性というものがあって、それにやっぱり、ある快楽とか快適性を感じているわれわれがいるのは間違いないと思うんですね。同時に、すごくリアルな人間関係というものもある。その両方を、われわれは期待していると思うんですね。そういう中で建築も使えるんだぞと。建築っていうものも使えるんだぞ、というふうな仮説に基づいて設計しているわけですね。


【スタジオ2】

●2人の目指す建築とは
妹島さん>>その時代、その時代にいろんなことが変わってきて、いろんな新しい価値観だったりができるわけだけども、その中で、自分たちはどうやってみんなで、やっぱり、集まれたかっていうか、どうやったら集まれるだろうかって、そういうことを。それがなるだけ、みんなにとって豊かなものでありたいし、そういうものを作れたら、考えれたらっていうふうに思います。

西沢さん>>やっぱり、建築を作ると人間の在り方みたいなものが問題になってくるんですよね。僕らが住んできた公団住宅のような3LDKみたいなのを作ると、家族っていうのはそういうもんなんだよっていうことを言っちゃう。どうしても言っちゃうわけですね。こう住むんだよという。お父さんってのは普通1人でお母さんってのは普通1人で、子どもってのは3人なんだよということを、なんか、建築が言っちゃうわけですよね。そういう意味では、逆にいえばこういうような家族はどうかとか、こういうコミュニティはどうかっていうことも建築は言える、考えようによってはですね。



●建築によるコミュニティ再生の期待も高まり
妹島さん>>そう、だんだんやっぱり、そういうふうなことを、考えられることがね増えてきましたね。私も、まだすごい若いうちは、どちらかといったらやっぱり公共建築といったら、誰もが反対しないものを作れと。それ、すごい難しい。そうすると、もうとにかくこれはやんないほうがいい、これはやんないほうがいいっていうほうになるんですね。今は、ちょっとやっぱり違いますよね。住民の方々のほうから、むしろ自分たちでいろんなこと始めて、その延長でこれ、こういうふうに使いたいんだよとかっていう動きとだんだん重なり始めてるっていうのが、今、起こってると思います。

西沢さん>>やっぱり、建築家だけが考えるんじゃなくて、いろんな人が考えてるからそういうものを融合させて、否定したり、肯定したりいろいろな批判し合って、なんかを押し合い、へし合い作っていくという場っていうのは、それは参加したいですよねやっぱり。


●どんな建物を作りたい?
妹島さん>>前から。私は一回、小学校とか中学校とか小さな子が使うものっていうのをやってみたいなと。今までは、学校っていうのは、先生と学生、子どもたちのためのものだったけど、もっといろんな可能性があるし町の中での、それを役割みたいな、片方で、やっぱり町からもっといろんな意味でサポートされるものでもあるといいんだろうな。

西沢さん>>そうそう。(キューバの小学校は)貧しいからなんだろうとは思うんですけども、町の中の建物を再利用して学校にしていて、アパートのいくつかの部屋に分散して、教室が広がってくんで、通りを歩いてると、1階に、この建物の1階にレストランが入ってて、隣にはカフェが入って、その横に1年3組が入って、その横に、またレストランがあるっていうような町の機能と教室群が混ざっている。子どもがその通りで100m走をしているという。休憩時間に。

妹島さん>>運動の時間になるとわーっと出てきて通りが運動場の代わりになってて。

西沢さん>>でも、在り方としてはすごく魅力的なもので、その町の大人と活動する子どもが混ざっちゃっていて、学校の範囲ってのもよくわかんないようになってるわけですね。でも、こういうのっていうのは、ダイレクトでおもしろいなというふうにも思って。そういう意味でも、学校なんか、新しい学校の在り方っていうのは考えるに値する、われわれの社会にとって考えるに値するし、これからわれわれの社会がどっちに向かっていくかということを示唆する一つの手がかりにもなるだろうなと思います。

SANAA



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NHK/SANAA Adventure of construction
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A Japanese builder "SANAA" standing on the head in the world.
The Louvre Museum new building opens at last, and extols last year.
The competition of a Ritsu Niiguni stadium is the battle with the rival in the world.
The construction revolution "from Japan"!
Japanese builders standing on the head of world construction and the center of those are "SANAA(s)."
They are 妹島 Kazuyo, Tatsumori Nishizawa, and two persons' unit.
The new building in Louvre Museum to which attention in the world was attracted was open in December, last year.
The novel building which made full use of special glass and aluminum was extolled.
In the international competition of the Ritsu Niiguni stadium in Japan of the total cost of production of more than 100 billion yen, it became the battle with the rival in the world.
In a stricken area, it gropes for a new town with residents.
Construction revolution "from Japan" ... The way of thinking is gazed at in detail.
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SANAA
SANAA
SANAA
SANAA
Although it thought how how to draw the Zaha ハディッド was as it is partial (seemingly being 仇役), they were the documentary of SANAA, and 1 hour with abundant net weight in which many highlights are on the whole.
Roughly, Mr. 妹島's career hardly touched Mr. Nishijima's profile, but the place which extracted the focus before and after main competitions felt it refreshed.
見お -- making [ which becomes and reads a book / it becomes and Kanazawa experiences SANAA construction by NY mak(ing) / which becomes and has many keys ] VTR to which what kind of builder duo a pair called SANAA is can imagine somehow if it divides, and a recipient investigates the rest for himself.
About "harmony with nature" which was seemingly being made into the theme from from when they came out (?), As Mr. Nishijima was saying, "He was forced old consciousness in serious soul-searching after the earthquake disaster as it was only abstract theory", the origin of the architectural principle swung and expression that the answer (effective means and construction solution) could not be found out exactly now in the bottom was able to be heard (mind carried out).
The construction was able to draw the nuance of being powerless from Mr. Nishijima's 晦渋 expression very to the earthquake which exceeded magnitude 8 on the Richter scale as things are the consciousness in which which became it conceited to say symbiosis with nature, and such a thing from man.
(There is no telling how the person himself/herself thinks, clearly.)
an earthquake -- it is not -- carry out -- probably, there is what [ like / a thing / fate ] as a builder who makes when or the thing destroyed
In if Mr. Nishijima drew the sketch of 900 on one private house and he showed it as the client, although there is a concrete topic, such as being faced with a heavy theme called the power and construction of an earthquake disaster or a natural disaster which were written above, even if reflected in television, it makes to have been charmed most into language -- not having (it does not become) -- it was at the time.
It is appearance and in what kind of combination call it atmosphere or the latest futuristic construction duo is working (distance, relationship, quality, a rhythm of a tag, etc. should be included).
It can be said also as the presence from which the opinion of SANAA, individuality, sensitivity, etc. are transmitted.
Curiosity which the person who has announced one work after another substantial now in the intense industry of competition where genius contends with each other excites although it is what kind of character ..... Seemingly, Mr. 妹島 of Mr. Nishijima who considered from beforehand was unrelated also to a cast like a shrine maiden x mountain priest called an executor in sensitivity charge.
If a center is a duo of 妹島 and Nishijima because the manufacture process in which a matter is examined by sitting in a circle with the staff of an office, and the planning deepens by discussion for several months is respected, Formation with a building office is observed and got to know at the group work center rather than the combination which does not specialize in the product made from construction which is as two persons, and art.
For example, if it is doubles of tennis or badminton, the golfer & caddie in golf was also differed from, and it seemed to be a way like キリンジ of an editor, a writer, and a brother singer two persons construct and と does not overlap, either, and formation.
Although impressions probably completely differed by the camera work of television, and the method of edit, two persons of SANAA were rather visible to atmosphere which is sharing the office as an independent builder.
You will greet, if coupling which develops into the close application or the good rival relation is also differed from, and each other is adjoined and it meets, and is it called the touch in character with the war comrade who is not such relation as to whether it speaks about a recent state, either, and survived both difficult time terrible temporarily?
but it -- the past thing -- is it said that it is nestling up to the imaginative power made quiet and calm that it is an adult mutually and is not a busy thing which it carries out and dares to take out to a mouth?
Although it was time not to fill in 60 minutes, regardless of what, the motif was analyzed thoroughly, and was reflected on and applied, and the discernment which deepens while repeating no less than 100 times and no less than 1000 times, and time to do imagination ?? closing in of and experience had a locus which draws the absolute core.
This posture will be eternal if it is a global competition in case of one private house.
How is counseling of a client done, and do you change the information received there into an image, and realize hope of a client?
The drive and process.
Since construction was the work which makes a dwelling (space which people pass), imagination and practice had just become a set.
Although "every [ 100 / not ] but 1 is done 100" was a theme this year, Mr. Nishijima was doing 900.
I would like to touch the essence.


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The NHK close-up present age / construction connects people. Challenge of ? 妹島 Kazuyo and Tatsumori Nishizawa?
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Construction of the Louvre Museum annex is progressing in France.
Having taken charge of the architectural design is a Japanese builder.
Unit [ of Ms. 妹島 Kazuyo and Mr. Tatsumori Nishizawa ] - It is "SANAA (サナア)."
Attention is most attracted from the world, such as winning the Nobel Prize "pricker prize" of a construction community last year.
It is "construction like a park which they begin to make."
People's exchange has been produced with various mechanisms, such as an art museum with alley space, and a university institution to which the interior of a room rises and falls like a hill.
Why does their construction call sympathy?
Two persons who challenge the possibility of new construction are approached at a long interview.
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Performer
妹島 Kazuyo (builder)
Tatsumori Nishizawa (builder)
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[Studio 1]
- I congratulate you winning the Nobel Prize and the pricker prize of construction, and having been awarded truly last year.
妹島 Mr. >> Is there nothing so?
the kana which Nishizawa Mr. >> is ます with having changed, and has seldom changed uncanny me peculiar [ seldom ] although often heard [ came ].
[Studio 2]
- Say that being everybody, that he is the 21st Century Museum of Contemporary Art, Kanazawa, and that he will be wholly surprised if it shows around open up like this guiding the person of the Nishizawa Mr. >> United States about "construction like a park" which the world evaluates there.
The child needs to come as the わ太陽見てりゃ Mr. Mr. ON which runs about, and this should really have surprise whether it is a kindergarten and whether it is.
the scenery completely different from a thing which they consider and which is called an authority attachment れた art museum.
Then, moreover, people of a town say that they are doing fairly happily.
I think that there is no approaching fine arts by such ふうな形 in an image not much.
妹島 Mr. >> Is it, when you would like to do, being wrapped in the bottom of a valley just for a moment, and settling down like this to a slight degree with the time that the time of scenery 見た is pleasant, from a high place to it?
various things -- it is a ある reason.
If there are some persons who are playing together if there are some persons who can have a person of various ages together too and, to whom the person of the various purposes has rested, for example, there is a couple.
It comes out and the various ways that should be are in the same park.
It is together, however there, its private space can be found by itself there, or can be made.
But can't a park think that it told somewhere somehow that it was connected with the world at one of the two, or is connected with other persons by such thing?
Then, did such a place [ like ] use [ any ] such language by whether it should be considered as everybody's new public space also in the time of public construction 作る?
- About the construction "with a feeling of opening" which is the feature
妹島 Mr. >> Although it probably rubs that what is necessary is just visible, probably there is nothing.
However, although it is fairly large as how to work as an element which works well, is that it is visible well, when you would like to talk in if you to like to regard it as the line here from this place and this place again even if he would like to go from a town, and it becomes or it goes into that building, since some are presented?
Do you come out and say that he would like to go away once again outside in a town from inside?
if [ such a thing / like / can be made and ] .
If fine-arts space is overflowing even if he is walking along a town although it will not enter if it disappears among 壁立てて for Nishizawa Mr. >> fine arts, and there is no considerable decision (i.e., if the relation between inside and outside is made), the chance to get interested increases.
Then, we rather say that we build a relation, also although there is [ the ] also opening.
The construction itself is opened, and it is not relational and has not necessarily said especially what.
There is expectation of wanting you to use for something, and people of a certain kind who felt a certain charm for it begin to use.
Do we probably regard beginning to use in an original form as expecting?
Although it is a certain semantic forcing てるん and becomes empty well.
Although it pushes fairly and shines.
妹島 Mr. >> -- easy-to-use therefore -- I think that it will not be able to say at all awfully and such if it is said that it is making.
Nishizawa Mr. >> Therefore, it does not try to make an easy-to-use thing.
It is trying to make a thing to come to use.
The thing that pleasure to be used comes to a center.
妹島 Mr. >> -- although we therefore also consider it -- too various persons' mind knowledge いてみる -- such -- such a thing -- a 使え tub -- Does it say [ being いな ]? probably it is pleasant.
I regard some as probably such a thing [ like ] leading to Kon's question.
- the public space of the present time -- Nishizawa Mr. >> -- it is case-by-case.
Because an individual regards some as their not being things as what is necessary is just to be able to do anything liking too even if it calls it individualism well although it is 妹島 Mr. >>.
ゃ which is not the same person wholly in order to set [ all ] that it is various to one although it is a place which can make all together that certain it is likely to gather too to one -- it is not bad, and some various persons of all come out softly, and can become together.
However, each has also imagined the place which can participate variously in its way.
Nishizawa Mr. >> I regard [ some ] with some that diversity is もん which is dream-inspiring and which can be regarded as some being performed there toward the future as there being liking to draw spatially.
The thing that it can do while it gathers, and the various human beings with individuality from whom the opinion of an individual is different push one another and push one another and do too considers to ふう whether it is a public too.
- The state of the construction of the Internet age
Nishizawa Mr. >> Or [ that worth of say / having a relation spatially just because it is the time which will be lent and to say of dressing / has gone up ].
It does not say that it denies the Internet and, probably we have a virtual thing called such relationship at such a time and one of the two. Do you think that it is certain that we who feel a certain pleasure and comfortable nature are in it too?
Simultaneously, there are uncanny realistic human relations.
Do we regard the both as expecting?
It is to also use construction under these circumstances.
It is designing based on the ふうな hypothesis that construction will be able to be used.
[Studio 2]
- Two persons' construction to aim at
妹島 Mr. >> If it does, how can it gather [ how it divided, however in it, one are everybody and were able to gather / which the time and the various things in the time can change, and can be various new senses of values, or can が / too, and ]? It is such a thing.
If it is rich, it receives and such a thing can be made for everybody as it becomes, I will consider to ふう of if it can think.
Nishizawa Mr. >> Too, if construction is made, what [ like / a thing / the way that should be ] man's will become a problem.
If like [ like the public housing in which I have lived ] 3 LDK is made, a family will say that it is such もん.
It says inevitably.
It is said that it lives like this.
Construction says [ some ] that they are usually three persons, a child, for one person as mother in one person in father.
in such a sense, if it says conversely, the construction can also say how and such communities as for such families [ like ], are how -- it will think -- coming out -- the shin.

- Has that it is possible 妹島 Mr. >> That expectation of the community reproduction by construction also grows and that it is such ふう too gradually meets increased?
It is if it says which it is and will be too called public building while [ where I am also still uncanny ] he is young, make that to which everyone is not opposed.
it -- great -- it is difficult.
Does it become a way said as it is better no to say, and for the way which can come so, then already anyhow and is not already in ん to be able to come, and for there to be already in ん?
Now, it is a little different too.
the rather various things by oneself from residents' way -- I can be cutting liking to use for such ふう [ this ] by 始めて and its extension, and think that beginning to overlap with a motion gradually has happened now.
Nishizawa Mr. >> -- since only a builder did not think and various persons think too, unite such a thing, and in places various in denying or affirming of criticizing each other, pushing one another, pushing one another and making something, it participates -- た -- too .
- I would like to make what kind of building.
From before 妹島 Mr. >>.
It is that I would like to do once what an elementary school, a junior high school, and a small child use.
Until now, as for a school, although it was a thing for teachers, students, and children, it will be good for there to be more nearly various possibilities and to be also what is one of the two like a role, and is too supported in more nearly various meanings from a town in it in the inside of a town.
Nishizawa Mr. >> It meets so.
(Cuba's elementary school) Also although he thinks that he will be because he is poor, reuse the building in a town, are making it school, distribute in some rooms of an apartment, and a classroom spreads and constructs, If you are walking along a passage, the restaurant was contained in the first floor of this building, next the cafe entered, 3 sets entered horizontally [ that ] for one year, and the function and classroom group of the town that there is a restaurant horizontally [ that ] again are mixed with the first floor.
A child says that it is just like that and he is carrying out 100-m 走.
To a recess.
If the time of 妹島 Mr. >> movement comes, come out with わ ー っ, and become instead of a passage being a playground.
As the way that should be, it is uncanny, and is attractive, and the child who works with the adult of the town is mixed, and there is nothing and it has also come [ which does not boil well as the range of a school ] Nishizawa Mr. >>.
But such getting and saying are as も思 as it is direct and interesting.
Also in such meaning, the state of a new school deserves in a school etc. thinking for our society which deserves thinking, and our society regards after this to which it goes as probably it becoming one key to suggest.


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2013年01月10日

ろーかる直送便/牧野富太郎

makino.jpg


NHK『ろーかる直送便』 〜しこく8「耐えて花咲く富太郎〜時代が愛した植物学者〜」
昨年、生誕150年を迎えた植物学者・牧野富太郎。その名を冠した植物図鑑は今でも多くの人に愛用されている言わずと知れた天才である。牧野の波乱万丈の人生を旅する。

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牧野 富太郎(まきの とみたろう、1862年5月22日(!)(文久2年4月24日) - 1957年(昭和32年)1月18日
日本の植物学者。高知県高岡郡佐川町出身。
「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威である。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っている。小学校中退でありながら理学博士の学位も得て、生まれた日は「植物学の日」に制定された。
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●牧野文庫
4万5千冊(自宅にあった)
東大のモグリ(っぽい学生? 小学校は中退してる)のまま学名をつけるまでに研究をすすめたが、研究室を出入り禁止になる。
家が二軒建つほどの借金を抱えながら、本を集める。

老境に入り、体調もすぐれなくなった頃でも、庭に出て一度草地に座り込んだら、半日も動かなかった。

90歳を超えてから、毎日出版社に手紙を出して出版の進捗をたずねたり、様々な事柄を書き残した。

つよい思いが人や物事を動かす。
いまでも地元の人が牧野さんのお墓の周りを植物園にしようとしている。




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ウィキ
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●生涯
1862年(文久2年)、土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)の裕福な商家に生まれ、幼少のころから植物に興味を示していた。
10歳より寺子屋、さらに塾で学び、その後12歳で小学校へも入学したものの2年で中退し、好きな植物採集にあけくれる生活を送るようになる。小学校を中退した理由として、酒屋だったので、小学校で学業を修め、それで身を立てることは全く考えていなかったからだと述べている[1]。
酒屋は祖母と番頭に任せ(両親は早くになくなった)、地元の学校の教師などから英語を学び、気ままな生活を送っていた。
植物の採集、写生、観察など研究を続けながら、欧米の植物学も勉強し、当時の著名な学者の知己も得るようになる。書籍や顕微鏡が欲しくなるなど研究心が固まった牧野は19歳の時、お供を2人連れて上京した。

22歳の時には東京帝国大学(現東大)理学部植物学教室に出入りするようになり、やがて25歳で、共同で『植物学雑誌』を創刊した。その後、26歳でかねてから構想していた『日本植物志図篇』の刊行を自費で始めた。今で言う植物図鑑のはしりである。それから牧野は東京と郷里を往復しながら研究者の地位を確立していくが、同時に家産も傾いて行った。

27歳で新種のヤマトグサに学名をつけ、『植物学雑誌』に発表した。1890年(明治23年)、28歳のときに東京の小岩で、分類の困難なヤナギ科植物の花の標本採集中にみなれない水草を採集する機会を得た。これは世界的に点々と隔離分布するムジナモの日本での新発見であり、そのことを自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになる。

31歳で帝国大学理科大学の助手となったが、その時には生家は完全に没落していた。
その後も各地で採集しながら植物の研究を続け、多数の標本や著作を残していく。ただ、学歴の無いことと、大学所蔵文献の使用方法(研究に熱中するあまり、参照用に借り出したままなかなか返却しないなど)による研究室の人々との軋轢もあり厚遇はされず、経済的にも苦しかった。

1926年(大正15年)には津村順天堂(現、ツムラ)の協力を得て、『植物研究雑誌』を創刊した。
1912年(大正元年)から1939年(昭和14年)まで東京帝国大学理科大学講師。

65歳で東京大学から理学博士の学位を授与され、同年に発見した新種の笹に翌年亡くなった妻の名をとって「スエコザサ」と名付けた。
78歳で研究の集大成である「牧野日本植物図鑑」を刊行、この本は改訂を重ねながら現在も販売されている。

1950年(昭和25年)、日本学士院会員。1951年(昭和26年)、89歳のとき、第1回の文化功労者となる。1953年(昭和28年)、東京都名誉都民。

1957年(昭和32年)、94歳で死去、没後従三位に叙され、勲二等旭日重光章と文化勲章を授与された。
墓所は東京都台東区谷中の天王寺。

2009年(平成21年)の映画『黄金花』で富太郎をモデルにした”牧老人”を原田芳雄が演じた。

●逸話
植物だけではなく鉱物にも興味をもち、音楽については自ら指揮をとり演奏会も開き、郷里の音楽教育の振興にも尽力した。

植物研究のため、造り酒屋であった実家の財産を使ったが、東京に出る際に親戚に譲った。後に困窮し、やむなく妻が始めた料亭の収益も研究につぎ込んだという。その料亭の件や、当時の大学の権威を無視した出版などが元で大学を追われたこともある。しかし、学内には富太郎の植物に対する情熱とその業績を高く評価する者も多く、78歳まで実に47年のあいだ、東大植物学教室になくてはならない講師として日本の植物学に貢献した。

富太郎の金銭感覚の欠如や、周囲の人にたいする彼の振る舞いにまつわる逸話は多い。しかし富太郎を追い出した松村任三自身、若き日研究に邁進する余り、周囲に対する配慮を欠いていたことを認めている。後年、富太郎は松村が明治初頭の植物学の第一の功労者であり、東大植物学教室の基礎を築いた人であると賞讃した。

尾瀬で植物採集した際にあまりに植物を採ったため、尾瀬の保護運動の一人者であった平野長蔵が研究するだけでなく保護を考えろと叱ったというエピソードがある。

●田中芳男と牧野富太郎
富太郎は1883年(明治16年)、第2回内国勧業博覧会見学のため上京し、その際、文部省博物局を訪ね、田中芳男と小野職愨に小石川植物園を案内してもらっている。まだ無名の富太郎が、3年後にコーネル大学に留学した東京大学理学部植物学教室の誇り高き教授、矢田部良吉の許しを得て、この教室に出入り出来るようになったのは、田中芳男と田中の師である伊藤圭介の力があった。

博物館行政や多くの勧業殖産に貢献し、後に貴族院議員になった田中と富太郎は本の貸し借りをするなど親しく交友があり、それは24歳年上の田中が亡くなるまで続いた。


●発見、命名した植物
命名は2500種以上(新種1000、新変種1500)とされる。自らの新種発見も600種余りとされる。
発見、命名した植物の例
ムジナモ、センダイヤザクラ、トサトラフタケ、ヨコグラツクバネ、アオテンナンショウ、コオロギラン、スエコザサ
和名については、ワルナスビやノボロギクのような、当該植物種の性質を短い言葉で巧く言い表しているものもある一方で、ハキダメギクなど発見場所をつけただけの命名もある。イヌノフグリのように意味を考えると(犬の陰嚢の意ゆえ)、少々破廉恥なものもあるが、この植物の場合、もとは和歌山県における同種の方言からとったものではある。
亡き妻の名を冠したスエコザサのエピソードはよく知られているが、富太郎からすればこうした学問の場以外の私情をはさんだ献名は例外的であった。
また、生き別れになった愛人・お滝を偲んでアジサイにHydorangea macrophylla Sieb. var. otakusaの学名を命名したシーボルトについて、otakusaの由来をシーボルトは日本での地方名だと著書にのべていたものが事実に反し、お滝に献名したものであることを突き止めたのも富太郎である。







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2013年01月08日

日本人は何を考えてきたのか 第九回(2013_0106) 『大本教 民衆は何を求めたのか。』 〜出口なおと出口王仁三郎


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ざっくりしたメモ
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ETV 22:00〜
日本人は何を考えてきたのか
第九回(2013_0106)
『大本教 民衆は何を求めたのか。』
出口なお出口王仁三郎
歩く人/中島岳志(北海道大学準教授・宗教学者) 
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大本教は何を目指し、なぜ弾圧されたのか?
(なおと王仁三郎、巫女と山伏(解釈者)という伝統的なシャーマニズムの役割)

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●大本教
京都府綾部に本部を置く大本教。
全人類の救済
120年前、明治25年に出口なおに神が降りたところから始まる。

争いと貧富の格差を正すべく開かれた宗教。

1887 なお 京都府福知山に生まれる
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餓死者がたくさんいた時代。
なお「不幸の年に生まれたのである」
なおは堕胎されるところだったが、母が姑に止められた。

安政2年 なおは福知山の家に嫁ぐ。
酒に溺れる夫にかわり、8人の子供を育てる日々。

明治25 郡是《ぐんぜ》の工場が目の前に出来た。
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これはなおにとって「近代」の登場だった。
機械化で、糸ひきの仕事が減っていく。
(なおだけでなく、女たちが出来る仕事であり、重要な収入源だった糸ひき)
道端でまんじゅうを売るようになるが、極めて貧しい。

●時代
 帝国議会
 明治憲法
 富国強兵
 鹿鳴館
 文明開化

松方デフレ政策
地方を犠牲にして国を富ませようとした歪な経済政策。
これによって農民は農地を手放すしかなくなり、高利貸しや地主に取り上げられ、農民たちは支配・搾取される構造が出来た。

なおの一家は破産。
夫は寝たきり。長男は自殺未遂のゆえ、行方不明。
なおはとてつもない距離を歩きまわり、ボロ買いをしてどうにか暮らしを支えようと奔走した。

なおの長女が嫁ぎ先で精神錯乱。
周囲も混迷を極める。
なおが住んでいた村で偽札作りで終身刑、殺人、自殺者多数で、不幸に巻き込まれなかった家は二、三軒しかなかったという。

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江戸時代末期から新興宗教が多数生まれる。
天理教、黒住教、金光教、丸山教。
明治25 大本教

ある晩、娘がなおの様子の違いように驚く。
たたり神として恐れられていた、うしとらの神がなおに降りる。(善神としてあらわれたうしとらの神だった)
なおは狂乱がやまず、牢に閉じ込められる。
神にたのむ。
「もう声を出さないでほしい」
神はいう。
「ならば書き取れ」

中島
「近代国家が標準化した言葉とは別の言葉、土着かつローカルな文字と声の世界がなおの書き取った書にはある」

なお
「日本は神の国。神が現れなければ立ち行かない世であるぞよ。外国はつよいもの勝ちの獣の世。日本も獣の世になりつつあるぞよ。神をもって心を立て替えなければ、日本も獣に食われるぞよ」


安丸(一橋大教授・思想史)
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なおの書き物は、とても低いところ(目線、暮らし、階級)から世界を見つめなおした貴重な資料といえる。
なおの思想には、この世を悪として捉えた。
たとえば利己主義(われよし)の世。

日本の思想には、善に対する悪という二項対立の概念をもって世界を見たものはあるが、この世の成り立ちや枠組みを絶対悪と見立てた思想はとても珍しい。江戸から明治にかけてもほとんどない。

それと近代化への異議申し立て。
なおは国家や経済の理屈で、慎ましく暮している人々が抑圧され、追い立てられることを拒んだ。
「強さや競争、出し抜くという行為の偏向は外国の影響であり、利益追従や利潤の深追いがこの世をダメにする」と。
(なおは近代化にネガだけを見た。ポジについては、昨日見たETVの河上や福田の考え方も参照すること)

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上田喜三郎(のち王仁三郎)
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多才で実行力に溢れていたが、血気盛んで揉め事ばかり。
ヤクザものに袋叩きにされ、母に諭され、一週間山篭りをする。
(旧二月、寒い時期、ほこらのような所)
水一滴のまず、一切食べず。
気づいたら高台の上に居ることもあったらしい。
喜三郎は悟る。
「この世は神のものである。この世で目にするのは人である。人こそ神である」

正統的な神道(明治政府が国家運営・人民掌握の根幹に据えた神道)を研究した喜三郎は、綾部の金神(こんしん)として信者を集めつつあったなおと出会い、紆余曲折の後、会を興す。


金明霊学会
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開祖 なお(女の体の男として)
会長 喜三郎(男の体の女として)

なお
「末法の世、みなが獣のようになっている世、これを立て直すには、天の岩戸をもういちど開かなければならない」
(立て替え)

喜三郎
「この世の一切は神のもの。それを吐き違え、弱気を挫いて搾取し、我が物とする蛆虫めらがはびこっている」

喜三郎はなおの娘と結婚し、出口王仁三郎になる。

王仁三郎はなおの信仰や予言に、自分が研究した正統なる神道とは相容れないものを感じつつ(なおの宗教は土着的でローカルな特徴がある)その言葉に惹かれた。

1904 明治37 日露戦争はじまる。

明治38 なおが沓島(めしま)へ。
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うしとらの神がいる島として、なおは二人の若者を伴なって入った。
修業は11日間。
岩肌に坐り、水に入る日々。

しかし教団は衰退。
王仁三郎は大本教本部を離れ、京都に移るが、生活に物足りなさを感じ、綾部に戻って大日本しゅうさい会を設立。


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なおは「いまの日本は間違った方向に進んでいる」として、立て替えを訴えた人。
王仁三郎は「弥勒の世」をいかに実現するのかという、建て直しを実行した人。
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1914 大正3〜 第一次世界大戦勃発。
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日本はかつてない好景気の波に乗るが、その影で格差が拡大する。

王仁三郎は社会の混乱の原因を「政治と宗教の分離」に見た。


大本教は『皇道大本』に改名。

『この世には様々な神がいて、世界各地に宗教があるが、真理は一つ。この唯一の真理と人間が合一すれば、ユートピアが実現される。
唯一の真理を体現する神は、この世の全てを束ねる天皇である。
つまり天皇を頂点とした世界の実現によって、この世にユートピアが拓かれる』
天皇親政を主張する宗教に極まり、軍人や学者をもひき付けていく。





1916 米騒動。
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81歳でなおが亡くなる。
いさかいも行き違いも、度重なる大喧嘩(心理敵、宗教的、派閥的な対立)もあったが、王仁三郎はなおの死に際して号泣。
「なおの声」を雑誌に載せはじめる。

1917 ロシア革命
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日本では吉野作造が普通選挙運動の必要性を訴え、大正デモクラシーが本格的に始まりつつあった。
王仁三郎はこうした主張に異を唱えた。
「自由平等、労銀値上げ、間違っている。求められるのは世界の根本的な変革 ―― 」


上田教授(京都大学)
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大正デモクラシーの時代、王仁三郎が伝えたこと、彼らの運動は、宗教の側からのデモクラシーだったと思います。

王仁三郎
「すべてを解決するには、天皇を頂点とした世界への再編成が必要だ」

この頃、王仁三郎はスサノオに扮し、写真を撮らせた。
スサノオはあぶれた神。
王仁三郎は自身の姿を国家権力と社会情勢と対決するパルチザンとしてアイデンティファイした。

大正10年 第一次大本事件
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王仁三郎が検挙される。
国家権力は自分たちが構築しようとしている神話=権力体系とは異種の、別ところから立ち上がった宗教とその熱の高まりを恐れ、嫌った。大本教と知識人の接近にも危機感を覚えていた。


安丸(一橋大教授・思想史)
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反近代的な思想や国体論は、大正デモクラシーと底流ではつながっていた。
天皇中心主義・国体論・神道中心主義の読み替えをすすめたのが大本教だった。
(ちょっと聴き取り辛く、意味もよくわからなかった。読み替えっていうのは何なのか。なにをどう読み替えることなのか。前提とされてる文脈と、リロードされたあとの文意の説明、およびそのギャップの示唆が欲しい)


島薗教授(東大。宗教、新興宗教の研究者)
------------------------
大本教の天皇親政が支持された背景には、国家が神道をベースとした国体論を唱えながらも(天皇を頂点とした、人民が平等に暮らす社会)格差が産まれ、貧富や階級差が生じているこの状況は矛盾しているという社会的(一部特権階級に属さない人々の)なフラストレーションがあっただろう。
(↑ ここに国家権力が大本教を弾圧する契機があった。政府や国家の転覆、反逆や批判を招く(増長させる)団体、宗教を放置しておけないと考えた)


――――――――――――――――


中島
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世界の多くの宗教は、真理というものを求め、追求している。
そして真理が見つかれば、世界は統一できると考えている。

――

王仁三郎が中国大陸に。
(エスペラントを学び……みたいなくだりがあったが、聞き取れず。皇国を実現すべく、中国の(大陸の)なにかと関係し、協力をとりつけなければならない的な何かだったかもしれない。布教活動。ゆくゆくは日本を(天皇・皇室)を頂点に、世界を統合する始まりとしての運動であり、大陸の実力者から狙われたとアナウンスされていた)

王仁三郎は中国大陸で豪族に拘束される。
銃殺直前で日本政府関係者(?)が介入し、解放。
この間一髪の生還劇が王仁三郎のカリスマを一層高める。

満州事変。
王仁三郎は軍部の行動および日本の大陸進出を支持。
「日本は世界の親国だから、日本が潰れれば世界が潰れる。いまは満蒙における利益を確保することが大事だ」
日本は貧しく、東北をはじめ子供・女子の身売りが横行していた。
生活に苦しむ民衆に王仁三郎の存在や思想が浸透していく。

(ほかにも宗教があっただろうに、神道一系の……大本教が支持されたのはなぜなのか。それだけが有効だとは思えないし、別の体系や思想の宗教が信者を獲得してもよかったはず。もうちょっとつっこんだ解説が欲しい)

(王仁三郎の戦争観、国家観がわからないので、いまの状態だと単に国粋で国家主義的なモチベーションから「大陸へ出ろ! 奪え日本軍! やれやれもっとやれ!」と言ったようにも聞える。
王仁三郎が「満蒙における利益の確保」といったということは、欧米やソ連の大陸進出が見え見えになっていた時代を鑑み、このままでは……という予測があったのだろう。
また、軍部が「日本は神の国。世界の先駆けであり宗主国」と洗脳したあの文句に篭っている、「日本が正しく、偉く、ほかはクソ」というニュアンスと、王仁三郎の国家観や神道観、宗教観や世界観にどう違いがあり、共通点はどこだったのか。彼の定義にしても、美しく、正しく、偉いのは「日本人」であり、ほかはその下に位置する人種、人民だったのか。それとも、ただ天皇だけが世界のトップにあって、あとはどこで生まれた何人であろうと男であろうと女であろうと皆ひとしい、と考えていたのか? いまの大本教はどう考えてるのか)



昭和9 王仁三郎が主催する昭和神聖会の会合
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「皇道の本義に基づき 祭政一致の確立を期す」
集まったのは右翼団体幹部、国会議員、陸海軍の上級士官たち。
王仁三郎は遊説に出る。
「昭和維新」を唱える。
 ・ワシントン条約の破棄など
 ・美濃部の天皇機関説の排撃
軍部は美濃部の論説を推奨していた(都合がよかった)。
しかし大本教にとっては、彼らが神道や思想の中心に据える「皇室」の扱いと美濃部の機関説にギャップがあり、受け入れることはできなかった。よって代表である王仁三郎は激しくこれを攻めた。

そして、一年後 ――

昭和10年 第二次大本事件
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昭和神聖会は信者5万人。
日本で一番の宗教団体になっていた。

京都府警は決断。
「国家的な重大事案」

大本教の本部を取り囲み、電話線を切断し、突入。

王仁三郎は無期懲役。

同時に検挙された信徒は、およそ1000人。
拷問でボロボロにされた。
精神までやられた人、多数。

本部はダイナマイトで徹底的に壊された。
国家は団体の根絶を目論み、壊滅の動きを全国に広げる。
この弾圧によって大本教は悪の代名詞に貶められた。
大本教の信徒、その家族は迫害され、子供はいじめらるようになった。追い込まれ、自殺者も出た。
かつて信者として亡くなり、墓に入った人の墓石から、大本教を知らせる文字だけが削り取られた。
(墓碑の上部だけが矩形にへこんでいた)

●時代は太平洋戦争〜

昭和17 王仁三郎は保釈。
以降、田畑を耕して暮らす。
1000人の信者が押しかける。
この時代、このような集まりが官憲に露呈すれば参加者の命がなくなってもおかしくない。
王仁三郎は言った。
「この戦争は負けるから、死んだらあかん」

敗戦。

信徒たちは壊された施設の再建をはじめる。
神像の破片をあつめ、像を立て直す。


(王仁三郎が作ったという器が凄かった! 左右一つづつ、どちらもベージュの焼き物、器。
左の彩色は赤やぴんく、ちょっと差し色で緑。満開の梅の花のような鮮やかさ。
右の器は、緑と茶色がベースで内側がぴんく! なんともいえない趣。ハイカラかつ雅。
王仁三郎はインテリで真理追究型の宗教者ではなく、独特の詩情を具え、人間味に溢れた異人だったことが伺える。それだけに、宗教者としてはとても危うい存在だったったはず)



――――――――――――――――


中島
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1920-30年代の苦しい生活に民衆世界は鬱屈を溜めていた。農村部は疲弊していた。しかし政治はここを顧みず、財閥優先、優遇の政策ばかりを打ち出す。大本教は極端なナショナリズムに陥る危うさを内包していたが、こうした社会状況にある種の光を差した。
大本教は混迷する時代にあって民衆生活の壮大な可能性を提示し、諸外国への敵意や恐怖心との向き合いに対する一定のアングル、所作を伝えた。


安丸(一橋大教授・思想史)
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民間にある、国家主義運動としては、大本教は大きな動因だった。
実態的には、大本教は戦争体制に進む下からの道を用意した面がある。

大本教が謳った天皇親政だって、本当に実行しようとしたら、社会の根本的な変革が必要になる。信徒になった民衆は、そうした大本教の思想に共鳴したというよりは……自分たちに比較的近い(生活、階級、苦しみ)集まりへの親近感が先にあっただろう。(この「親近感や連帯感による集団の形成」は「ファシズムの契機とその肥大」に見られる特徴でもある)
大本教にしてもそうだが、宗教や思想の流れを追う際には、時代潮流と民衆の生活、その内実を根底から考えなければ、様々な議論は空疎になるのではないか。


島薗教授(東大。宗教、新興宗教の研究者)
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大本は外国の思想、エスペラントをやったように、外のものを取り入れたところにも特色があった。
大地に根を下ろした人間生活を模索、提案していた。

大本が弾圧されたのは、思想の内容うんぬんではなく、大きくなった集団としてのエネルギーを察し、やっかいなことになるまえに芽を潰したのだろう。

敗戦後の社会をどうするかは、大本教の成り立ちからしてゼロ構築は必要なかった。(ずっと建て直し、立て替えをする時代を見て、活動していたから)






霊界物語〈第1輯〉








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2013年01月07日

日本人は何を考えてきたのか 第8回 「人間復興の経済学をめざして」 〜河上肇と福田徳三







ETV 1/6 25:40〜(2012_7/29の再放送)
日本人は何を考えてきたのか
第8回
「人間復興の経済学をめざして」
〜河上肇と福田徳三
ナビゲーター/内橋克人
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内橋克人
「(明治から昭和にかけて)毎日つとめて真面目に働くのだけれど、貧困の生活から抜け出せない。
いまでいうとワーキングプアの環境であり、時代でした。
河上と福田は、こうした難しい時代において人間がどう生きるのか、命をかけて考え抜いた経済学の創始者です」

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河上肇
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1879年10月20日 - 1946年1月30日
日本の経済学者。
京都帝国大学でマルクス経済学の研究を行っていたが、教授の職を辞し、共産主義の実践活動に入る。
日本共産党の党員となったため検挙され、獄中生活を送る。
カール・マルクス『資本論』の翻訳(第一巻の一部のみ翻訳)やコミンテルン三十二年テーゼの翻訳のほか、ベストセラー『貧乏物語』で知られる。
死後に刊行された『自叙伝』は広く読まれた。
名文家であり、漢詩もよく知られている。福田徳三とは終生のライバルであった。
その著作は毛沢東も愛読した。

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河上、16歳。
高等学校に入学。
(日本は日清戦争に勝利)
政治家になるため
上京。
学生生活、政治学を学ぶ。
浅草などスラムの貧困の様子、飢える子供たちにショックを感じる。
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山口県玖珂郡岩国町(現在の岩国市)に旧岩国藩士の家に生まれる。山口尋常中学校、山口高等学校文科を卒業し、東京帝国大学法科大学政治科に入学。その時、故郷では見ることの出来なかった東京の貧富の差に大変なショックを受ける。
その後、キリスト教者内村鑑三に大きな影響を受け、また足尾銅山鉱毒事件の演説会で感激し、その場で外套、羽織、襟巻きを寄付して、『東京毎日新聞』に「特志な大学生」であると報ぜられた。
1902年(明治35)大学を卒業。
その後国家学会雑誌に投稿するようになり、人々の幸福に経済学をもって貢献しよう、と考えるようになる。
1903年(明治36)東京帝国大学農科大学実科講師に就任。
その後専修学校、台湾協会専門学校、学習院などの講師を兼任し、読売新聞に経済記事を執筆。
1905年(明治38)、教職を辞し、無我愛を主張する伊藤証信の「無我苑」の生活に入るが、間もなく脱退し、読売新聞社に入る。(ウィキ)

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内村鑑三につよく影響される。
“左をうたれたら、右の頬を出せ”
「徹底される反利己主義の思想、ここは考えていく上で絶対に外せない。しかし、いまを生きるためにそのような姿勢を貫いたら、あっというまに滅びてしまう・・・・・」

福田徳三
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1874年12月2日 - 1930年5月8日
日本の経済学を開拓した経済学者。
社会政策学派、新歴史学派として経済理論、経済史などを導入した。
東京商科大学(現・一橋大学)教授、慶應義塾大学教授、フランス学士院文科部外国会員等を歴任。

東京神田生まれ。母はクリスチャンである為、1881年12歳の時洗礼を受ける。
泰明小学校を経て、母の遺言と姉の助言に従い高等商業学校(後の東京高等商業学校、現在の一橋大学)に入学、学生時代、東京の貧民街(スラム)での伝道活動に参加。
1894年同校卒。
同年關一 (のちに大阪市長)とともに神戸商業学校(現・兵庫県立神戸商業高等学校)教諭に就任。
1895年教諭の職を辞して、高等商業学校(現一橋大学)研究科入学。
1896年同卒。
1898年から文部省に任じられドイツのライプツィヒ大学やミュンヘン大学に留学し、カール・ビュッヒャーやルヨ・ブレンターノに師事、1900年ミュンヘン大学で博士号を取得する。(ウィキ)

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福田は河上の五歳年上。
知り合った頃、福田は一橋大学の教壇に立っていた。

河上と福田は、ともにキリスト教を汲んだ思想で、貧困問題を考えていった。

福田 ―― 農民が営利的な感覚を養うべき。
河上 ―― 農業は営利に左右されないもの。ここをもっと考えなければならない。

田中教授(上武大学)
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若い頃は二人ともキリスト教をバックボーンに利他主義でやっていた。しかし、のちに道が別れる。
福田はモラルと経済学や社会生活と切り離して考えようとした。これは市場を認め、意識しているということ。
河上はモラルと実証的な側面をわけない。むしろモラルを基礎にして経済学を構築しようとした。

宮島教授(早稲田教授)
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福田と河上。
違いはあるが、二人とも農業・経済の発展で生活を豊かにし、人間が貧困から脱せるようにという考えが一致している。

――

河上は、いまだ引き裂かれる状態に苦しんでいた。
(宗教的、人間的モラルと現実)
宗教家との出会いと、二ヵ月後、あっというまに訪れた別れ。
「貧しさをも引き受けなければならない。それはなくならない」
河上は挫折。
受け入れられないと改めることになる。
この出来事が河上学問、哲学のあらたな出立の契機になる。


河上、京都大学赴任。 
大正2年にロンドンへ
当時世界でもっとも豊かな国だったロンドンにあって、貧富の格差と階級社会を目の当たりにする。
ロンドンを離れ、ロッカレーという村で、小作人の家に下宿する。
地方でも階級社会・差別社会の現実を見る。
小作人は地主にこき使われている。
「現在、イギリスはカナダを占領し、オーストラリアを占領し、田舎では有産者という階級が無産者を従え、搾取している。これでは人種的戦争は続き、国内では階級差からの闘争がなくならないだろう」

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福田はドイツ人の師匠(経済学者)から
「すべての人には生存権がある」と薫陶を受ける。
ここから独自の経済学を模索する。

 ●マルサス「人口論
 極端に言えばマルサスは「親の恵みや、自身で労働を得られなければ、そういう人間には生存の権利がない」と考えた人。

福田はこれと対する考え方。
「誰もが社会の一員として存在し、すべての人間に生きる権利がある」

――――――――――――――――

福田はメンガーの本も読んだだろう。

アントン・メンガー
------------------------
[1841〜1906]
オーストリアの法学者。の弟。法的社会主義の代表者とされ、全労働収益権・生存権・労働権を基本権として確立することを提唱。著「民法と無産者階級」など。


1890年 アントン・メンガー 『民法と無産者階級』
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いまある法律は有産者(階級者、上流階級の人間)のためにあって、無産者を考えていない。有産者、無産者わけ隔てない法律が必要だ。
ワイマール憲法の草稿にも活かされた考え方。


河上の『貧乏物語』は多くの読者を獲得する。
「国民に生活必需品が行き届かなければならない。富者は生活を弁えるべき」
多くの批判も受けた。
「道徳と経済論の混雑。河上理論……こんなモラルの説法でことがすむなら、経済学も経済理論も必要ない。ナンセンスだ」

河上は研究室にこもり、マルクスの『資本論』を研究した。

河上
「おそらくそのころ、真理はここにあると考え、マルクス主義を宣伝することを決意した」

――

福田は吉野作造と黎明会を結成。
(普通選挙の必要性や言論の自由を求めるなど)
社会のあり方を根本から変えようとする河上を批判した。

福田
「(マルクスをベースにした河上の)デモクラシーは、プロレタリア階級のみのデモクラシーだから、本物のデモクラシーではない。信じるに値しない」
福田は社会主義には反対。
資本主義のなかで、出来ることを考えていく。

マルクス主義の研究に没頭する河上は病に伏せ、静養を兼ねて田舎(わかのうら)に移る。

アダム・スミス、スチュアート・ミル、ジョン・ラスキンを丹念に読み、マルクスへの道筋をつけていく。
社会主義思想に、人間道徳の光を見る。
しかし弟子の櫛田に論破される。

櫛田
「社会主義は、闇に生まれるから光に見えるのであって、光に属するから眩しいのではない」(意訳)


河上はキリスト教徒からマルクス主義者に生まれ変わろうと決意。
河上「命がけの飛躍である ―― 」

――

関東大震災。
死者は10万人を超えた。
そのとき箱根で執筆していた福田は、誰にも何も告げずに歩いて東京に戻った。

福田
「私は、災後3日、4日に東京に入った。死屍累々の惨状を目の当たりにした。復興は東京や横浜限りの問題ではない。国を挙げて取り組み、それをもって鎮魂を急がねばならない。災後の東京は、黙って物を書く生活を許さない。書斎にこもっての執筆・・・それは一つの罪悪だと感じる」

福田
「(いま実現しなければならないのは)普通選挙と権利の平等、ことに財産権に対する労働権の平等、人には生存権の平等、経済上には労働の機会の均等、軍備の大節約を実行し、復興費にあてること ―― 」

福田は仮設住宅を回り、男女別の失業率を調べた。
男性より、女性のほうがはるかに数値が高い。
女性たちがどんな職種を希望しているかを聴き取り、その結果を就職機会に活かすべきと主張。
東京全体の失業についても調査。おなじく職種と失業者を数値化し、復職への道筋をつけた。
官僚の仕事に(調査に)不満を感じ、自ら約3万6000人を聴き取った。(学生のちからも借りて)

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1923年の関東大震災直後に自ら学生達を引き連れ、失業率の調査を1万324世帯(約3万6000人)を対象に8日間かけて行い、その結果を基に東京全体の失業率を推計し、国や東京市(現在の東京都)に対し復職のきめ細やかな支援の必要を訴えた。また著書『営生機会の復興を急げ』のなかで、「復興事業の第一は、人間の復興でなければならない」と関東大震災を具体例として、以前から提唱していた生存権の必要性を唱えた。(ウィキ)
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関東大震災後、国は「自分たちの言うことを黙って聞け(※1)」と命じようとした、福田はこれに反発。
「生存権、労働権を認めよ。予算がないから復職の促しをやらないというのはあり得ない。建物や環境ではない。人間の復興が最優先だ。そのために労働の機会をすみやかに復活させ、人々がこれまであった暮らしに戻れる政策を実行しなくてはならない」
(※1)「被災地のため、被災者のため」というエクスキューズの裏で、権力側が(権利者、有産者が)あらたな経済圏を作ってしまい、そこにあった労働や社会を一新して、利益を吸い上げる搾取の構図がある。(例:スマトラ沖地震で漁村が壊滅し、援助の名目で一大リゾートが整備され、地元民が取り残された実体の無い復興支援が見過ごされてしまった)

昭和3年 3月
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「結社を作ってはならない」
思想弾圧の潮流。

河上は京都大学から辞職を促され、これを受ける。
この追放劇を表立って激しく批判したのが、福田だった。
「辞職ではない。自発ではない」

同僚だった山本氏が暗殺。
河上の身にも危険が迫るなか、山本氏の葬儀で語る。
「断固たる闘争の……」
警官が踏み込む。
中止に追い込まれる。

昭和5年 1930〜
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「昭和恐慌」
東北を中心に女の身売りが横行していた。

福田は糖尿病で、慶応病院に入院していた。
「人間を全体として引き上げることに貢献しない経済は、厚生という概念から許されない」

働けなくなった人々の権利を認めるべきという主張。
福田は亡くなる。

福田は賛美歌を口ずさんだあと、亡くなった。
河上は「もっとも明晰な学者を失った」と語った。

河上は共産党に入党。
「(かくまってもらった絵描きの家で)日中は窓から顔を出すこともためらわれた」

昭和8年 1月
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河上の検挙。
5ヶ月の地下生活ののちだった。
独房で転向を認めろと強制される。
「出獄し、私は隠居する。それはマルクス主義の動揺ではない。貫くことである。共産主義者としての資格を自ら棄てることは、共産主義者としての自刃である。そのための隠居である。ただマルクス主義者を信奉するというだけでは、マルクス主義しゃでも、共産主義者でもありえないのだ」

河上は4年の獄中生活を経て、出所。
その三週間後〜
昭和12 1937 日中戦争が勃発。
河上の教え子が何人も戦場に。

河上
「“権力のエゴのために若者が殺されている。この時代にあって、おまえは何をしているんだ?”と問われれば、ただ詩を作って寝転んでいるだけだと答える」

河上は社会的な軽蔑を引き受けた。
捕まって権力に屈服し、のこのこ外に出てきたら漢詩の世界に遊んでいる男……と批判されることを受け止めたうえで、漢詩の深さを探究し、詩作の日々のラディカリズム ―― 反権力性を貫いた。

昭和21 敗戦の翌年、河上は亡くなる。

河上の生家に泥棒が入ったが、なにも無くなっていなかった。
泥棒の置手紙があった。
「汗が出たからハンカチだけ貰っていく。悪かった。ごめんなさい。せっかく入ったけど、河上博士の生家だとわかったから、盗らない」

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富というのは価格換算されて、国民所得として表れてくるものだけでいいのかという福田の厚生の経済思想 ―― 数値に換えられないものの豊かさへのイマジネーション。
これは福祉国家、福祉社会へつながっていく ――
------------------------

憲法25条に「生存権」が明記される。
福田の考えた厚生経済学と重なるものだった。

福田の弟子が書いた言葉。
「労働権、生存権は認められたものの、その実現は遠い将来に属する。かくして、先生の理想は彼岸にある。現実世界の変革は遅々足りと、言わざるを得ない」

――

福田は社会闘争を、生存権や労働権など、権利を認めさせる運動だと考えていた。

河上の経済学は日本を基盤に、アジアを基盤にした経済思想として、アジア諸国に影響を与えた。
(ひたむきさ、独自性 ―― 近代化の中でどういう人生の処し方があるのかと模索した。マルクス主義者になってからも、宗教的な想像力を棄てずに考え続けた)

――

●貧困の装置化に抵じる
資本主義の巨大化は、貧困を装置として利用するようになる。(失業率は高いほうが、コストの安い労働力を使え、利益の追求に適うなど)

●市場主語から人間主語へ
“市場に任せればいい(市場原理を優先し、そこに資金や資源を持ち込み、優先すること)”では人間の生活が立ち行かないとわかった今、福田や河上が考えた経済学の本質に返り、あらたな経済機構や経済哲学を打ち立てる必要がある。人間ひとりひとりの生存権や労働権を見つめなおし、貧困に貶められ(無視され、追いたてられる)ることなく、生き生きとした生活をどう取り戻すか、実現するかという人間主語の時代へ切り換えなければならない。

――

河上が老境に入り
「すずりはかわらないのに、自分は老いた。しかし志はかわらない。それが嬉しい」と書いた。











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日本人は何を考えてきたのか 第7回  魂のゆくえを見つめて〜柳田国男と折口信夫


●ざっくりしたスケッチ
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ETV 1/6 0:10〜(2012/7/22の再放送)
日本人は何を考えてきたのか 第7回
▽魂のゆくえを見つめて
柳田国男 東北をゆく[字]
歩く人/重松清

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死者の魂はどこへゆくのか。
柳田は地方に残る伝承に光をあて、日本の心を探った。

――――――――――――――――


柳田はおよそ90年前に津波の被害にあった宮城を歩いていた。


2011.7月
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重松が被災地を歩く。
3.11、2:46分で止まってる中学校の時計。
美術室の黒板には数式が書かれたまま。

2012.5月
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重松が同じ被災地を歩く。
美術室に生徒が作った友人の顔の像が並んでる。

重松
「この像を通して死んだ人を想像できる。柳田が広い集めたのも、そういった意味での名もなき人々の魂だったのかもしれない」

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明治の大津波。
宮城で2万7000千人が死んだ。

柳田
「死ぬまじくして死んだものも多かろうが、このほうが(津波というものの後は)忘れられるのも早いらしい」

 文字にならない記憶のこと ――

柳田
「知恵のある人は臆病になる。高台にあがったことを悔いている。それより喰うことが大事といち早く浜に出たものは、漁業にも商売にも、おおきな便宜を受けている。あるいは余所からきて、あちこちに勝手に住むものもいる。集落は以前と変わらぬ大きさがある」


柳田国男
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1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)
現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれ。

父は国学者。
8人兄弟の6男。
「私の家は日本一小さい。ここが私の民俗学の始まり」

12歳。
茨城の布川に兄を頼って移り住む。
農業地帯。
貧困に喘ぐ人々が暮していた。
得満寺で『間引き絵馬』を見る。




柳田
「その絵は産褥の女が鉢巻をして、産まれたばかりのえいじを抑えているというおそろしいものだった。障子には女の影がうつり、頭からは角が生えていて、右側には霊気がわき、泣いている。子供心が冷たくなった」


明治33 1900 
柳田、東京大学を卒業して農務省へ。
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「学問は世のため、人のためであるべき」
東北地方に目を向け、歩き始めた。
遠野の「五百羅漢
一人の僧侶が五年かけて死者を鎮めた石像。
東北の苦しさ、悲しさを実感する時間が続く。


昭和8 1933 
昭和三陸大津波
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柳田の弟子、山口弥一郎が被害を徹底的に調べる。
被災した人々の声を書き留めたノートが大量に残っている。
柳田が山口に伝えたアドバイスも残っている。
「もっと三陸に入り、より苦しい状況で生きている人の声を聞いてください」

●いま山口の研究が脚光を浴びている
経世済民」=社会を治め人々を救うこと
柳田の実学を継承している。

昭和の津波のあとに立てられた石碑

 高き住居はじそんのわらく
 ここより下に家を建てるな

山口
「今度こそは下るまいとお互いが戒めあっている」

これを守っていた集落は、3.11の津波の被害にあわなかった。

――

柳田から山口へ。
記憶を伝承することの大切さ ――

――

柳田は90年前の津波のあと、寺で江戸時代の彩色画を見た。
絵のモデルになった五人家族は、この津波で亡くなっていた。
被災した小学校の体育館には、たくさんの写真がネットに下げられている。

柳田
「絵にこめられた想い ―― あの世で幸せになっていてほしいという死者への願いは、まことに人間らしいものだ」

――――――――――――――――

赤坂教授
「明治以降の東北は国に米作りを強いられた。土地からしてフィットしてない。これによって日本の中で最後まで「飢饉
=けがち」が残ってしまった。シビアな環境。
柳田が東北を研究のエリアに据えた事には、この点も見通していただろう。厳しいからこそ神話や伝説が今も生きて存在するのだ、と。
東北と沖縄が柳田民俗学の出発だったけれど、これは3.11の震災後、必然だったと再認識した。
三陸は震災前から過疎や高齢化が最も進んでいた土地。これが被災によって、二十年、三十年ぶん加速した感がある」


遠野物語の出版に(?)
 願わくば これをもって
 平地人を戦慄せしめよ

 ※遠野の「遠」はアイヌ語で湖のこと(?)


柳田
「日本には、悪いことも良いこともせず、記録に表れない人間が8割です。
それがなんとも惜しい。
これが「フォークロア=民俗学」を志したひとつの動機です」

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遠野物語から(意訳)
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福二という人は 妻と子を失い
生き残った二人のことともに元の小屋にいた

夏の初めの月夜
福二が厠へおきると浜に霧
男女の影が浮いていて
近寄ると 女は妻だった

思わず福二はそのあとをつけ
隣村 祠があるところまでいって妻の名を呼ぶと
振り返って笑った

男は これも同じ里の者で
津波で死んでいた
じぶんが妻と会う前
ふかく心を交わした男だった

「いまはこの人といる」と妻はいった
福二は「子供に恥ずかしくないのか?」ときいた
おんなはすこし顔の色をかえて泣いた

足元を見下ろしている間
妻と男は海沿いを駆けていった

ふと死したる者と思い直し とまった
夜明けまで道中で考え
朝になって帰った

そのご ひさしくわずらいたり といえり

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―― 福二の子孫の話し
「なぜこんな忘れたい話を、うちの先祖の醜聞にも聞える話を柳田さんは書き取って……と思う時期もありましたが、私に教えてくれた母が3.11の津波に流されたいま、あらためて考えると、それがどんな話であろうと物語のなかで、伝えられたということのなかで残る何かがある気がしています」

赤坂教授(学習院大学)
「遠野物語には幽霊をめぐる話がたくさんある。幽霊とは生きている人にとってどのような意味があるのか? 
ぼくは、生きている人たちと和解をしようとしている存在ではないかと思います。
死者とは話せないので、関係や問題を解決させることができない。そういった生きている人間の想い、もう一度会って話をしたい、和解したいという感情が託されているのではないか、と。
福二さんも妻への複雑な感情があっただろうと。でも伝えられずに別れがきた。津波で死んでしまった。福二さんが柳田さんにこの話をしたのは、この言い得ない気持ちをあらためたかったからではないか。
こう考えると、死んでしまった妻が慕った男と一緒に、死後の世界に過ごす姿を眺め、自分は家にかえった福二さんの語りは、救いとゆるしの物語として胸に迫ってくる」

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沖縄 ――
海の向うの他界、ニライカナイ ――
柳田は著書『海南小気』で沖縄を書く。

谷川(民俗学者)
「人間は他界を夢み、今を生きる動物。ほかの動物は他界を想像することができない。人間は特別なものではないんだけど、この一点はほかの動物と違う」

折口信夫
1887年(明治20年)2月11日 - 1953年(昭和28年)9月3日)
日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した詩人・歌人でもあった。
彼の成し遂げた研究は「折口学」と総称されている。
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柳田の薫陶を得たのが折口信夫。

岡野弘彦(歌人)
「折口さんは、柳田さんがやったこと、言ったことをなんでもやる人だった。沖縄がいいよ、と聞かされればすぐに出かけた」

折口は「常世=ニライカナイ」と重ね合わせ、沖縄を見た。
「“神=まれびと”は時あって、ここから船に乗って、人間の国に来ると信じられる」

●アンガマという儀式
面をつけた男女が踊り、歌い、家々を訪ねて歩く。
ニライカナイとこの世を行き来する儀礼。
ここに折口のまれびとの概念が肉体を得て、発展していく。

折口
「まれびとは 海のかなたから時あってきたりて その村人の暮らしを幸せにして帰る 霊物をあらわしている」

柳田国男『先祖の話』


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若き魂への思いで執筆された、柳田渾身の一冊。
柳田「国のために闘って死んだ若者を無縁仏にするわけにいかない」
3年8ヶ月の太平洋戦争(※1) ――
日本人だけで310万の死者。

―― 日本人は、だいたいどのへんに先祖の霊がいると考えるんでしょう?
柳田 ―― 山の上でしょうね。子孫の田園の見えるところ……農民は山の見えるところに祀るんです。こんなに綺麗な水を流してくれる存在は、親切に違いないと仰ぎ、あがめるんですね。

折口も太平洋戦争によって魂の問題を掘り下げる。
養子の春洋が戦死したことも大きかった。
折口は戦死者を「未完成霊」として思いをめぐらせる。
やがて神になるという考え方。

柳田と折口は霊魂観で対立する。


1949 対談
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柳田 ―― 人は死ぬと先祖の霊となる。そのうえで、祖霊は田んぼごとに降りてくる、家の神となる。定まった田に降りてくる神が、正月や盆にも降りる、かならず降りられる、祖霊だった。それは伝承によって証明できる。

折口 ―― 人は死ぬと、ひとつの集合体となる。常世から魂はそれ意図して、共同体に加わり、個々の家に降りてくるのではない。常世の国に集まる。男女も霊魂になり、単体化する。それは個々の家の祖先ではなく、たんに村の祖先として戻ってくる。私はマレビトひとつひとつに個性ある祖先を眺めない。

谷川(民俗学者)
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柳田は一人一人への眼差し、親愛や情があったんだと思いますよ。死しても個として眺め、認めたうえで敬いたかった。
折口は古代的な発想。古代は集団的な死生観。個人の死ではない。

昭和28 1953(※2)
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折口信夫が他界。66歳。
死の直前まで、岡野弘彦さんが口述筆記した。
折口の死を柳田に伝えると、
「折口君が、ぼくより先に死ぬことがあるもんか!」と激しく言いました。泣いてらしたかもしれない。
それだけ折口さんを頼りにしていたのでしょう。

昭和37 1962 柳田国男、87歳で永眠。
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柳田
「魂になっても、生涯の土地にとどまるというのは、自分も日本人であるからか、しごく楽しい。できることなら、いつまでもこの国にいたい。そして、一つの学問のもう少し寄与するようになることを、どこかささやかな丘の上からでも、見守っていたいものだと思う」

赤坂
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戦争のあと、死者の行方、魂の行方を考えざるを得ない時代だった。柳田や折口をはじめ、必死になって考えた。
折口は同性愛者だったので、家族を持たない、子孫を持たないという生き方をした人。自分の愛した養子の魂はどこへいくのかと真剣に考えなくてはならなかった。家族や子孫に連なるイメージには同調できない。そういったフレームから、折口特有の死生観が育まれたと考えられる。
(柳田、折口には)亡くなった多くの人と一緒に生きているという感覚があると思う。
これは西洋であれば、生きてる人間が共生していく感覚なんだろうけれど、日本においては、生きている存在と亡くなった存在がともにある、という感覚だろう。

神戸は震災の跡をすべて取り除き、均し、街を再生させた。
生活は元通りになったが(物質的な面では)、反面、神戸の震災の記憶を語り継ぐことが難しくなった
3.11では、そこをどうするのか。

重松
「死者をどう考えるか。被災して亡くなった方々をどう悼むか。記憶をどうするかというの問題ですね。柳田や折口が残した言葉を辿り、私たちはここについて考えをあらためなければならないのではないか」

福二の子孫
「(3.11の津波で流された母は)亡くなったのではなく、居なくなったと思いたい。……居なくなった。いつか帰ってくるんだと」



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(※1)
太平洋戦争(たいへいようせんそう、英: Pacific War)
第二次世界大戦の局面の一つで、大日本帝国(日本)など枢軸国と、連合国(主にアメリカ合衆国、イギリス帝国、オランダなど)の戦争である。
太平洋から東南アジアまでを舞台に日米両軍を中心とした戦闘が行われたほか、開戦を機に蒋介石の中華民国政府が日本に対して正式に宣戦布告したことにより、1937年以来中国大陸で続いていた日中戦争(支那事変、日華事変。以下は日中戦争で記載)も包括する戦争となった。

(※2)
1950年代〜
●自動ピアノの発明
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穴を開けたロール紙をセット、回転させハンマーに連動して発音するピアノで、19世紀半ばに登場し世紀末に流行した。従来は名演奏家の演奏等を記録し鑑賞目的で用いられたが、蓄音機の普及とともに廃れた。

マクルーハンがメディア・コミュニケーション論を展開
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マクルーハンのメディア論とは「社会・文化的諸現象の深層に共通に存在する時代の無意識」を探り出そうとする((この点と、柳田・折口が霊の問題を考えたこととは共通している気がする))独特の文明論」という特徴がある。
また『「メディア」についての捉え方はきわめて広義である』とされる。
「メディア・コミュニケーション・ミックスの社会の中に写真が位置づけられ、「印刷的人間《タイポグラフィック》の時代から、画像的人間《グラフィック》の時代」への転換が考察されたという点においても、きわめて大きな意味をもつものであった」
ちなみに写真学的に捉えると「文書=言葉」の時代から「画像=イメージ」への転換期でもある。
霊魂が言葉ではなく「画像=イメージ」として捉えられる時代があるのかもしれない。いや、ルネサンス期を振り返るまでもなく、ずっとそうしてきたのか?


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メモ
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死んで神になるっていう考え方が310万からの人間を死なせた(「神になれるんだから怖れずに行け! 天皇のために死んでこそ日本男児であり、生神の晴れ姿だ!」と若者をたきつけ、人格が入れ替わるほど洗脳し、戦争主導者たち(それが誰だという問題はまた別にある)が殺した)、戦争の後にまた「死者は神になる」と考えたのか?










posted by bibo at 05:56| Comment(0) | TrackBack(0) | TV | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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